[製作家情報] David Jose Rubio (1934~2000)本名David Joseph Spink。20世紀以降のイギリスにおけるクラシックギター製作の嚆矢となり、その後の文化的素地を形成し、現在もフォロワーの絶えることない多大な影響力を有した天才的な製作家です。またその才能はクラシックギター製作のみならず、1970年代以降はハープシコードやバロックヴァイオリン等の製作においても発揮され、当時ちょうど再発見のブームにあった古楽演奏のフィールドに大きく貢献しています(彼の製作したハープシコードは古楽演奏の大家グスタフ・レオンハルトがバッハ演奏のレコーディングで使用しています)。彼の工房ではポール・フィッシャー、E.B.ジョーンズ、カズオ・サトーら多くの優秀な弟子をスタッフとして登用し、それぞれが独立後もすぐれて創造的なギターを世に出していることからも、メンターとしても非常にすぐれ、かつインスピレーションを喚起する存在であったことがうかがえます。
ルビオ自身の経歴はとてもユニークかつ「アーティストらしい自由な」もので、大変に濃密。青年期から医学を志し専門学校に通っていましたが、色盲のためこれを断念。それから一気にシフトチェンジし、スペインに渡りジプシーコミュニティとの交流のなかでフラメンコギターを演奏するようになります(この時彼はセビージャ出身のフラメンコギタリスト、Pepe Martinez に演奏の手ほどきをうけています)。スペイン各地を廻り、それぞれの地でいくつものギター工房を訪れた彼ですが、特にマドリッドでは当時はまだEsteso を名乗っていたコンデ・エルマノス工房に「ギタリストとして無駄話をしに」行き、ファウスティーノ・コンデが製作する様子を見つめながら(決して製作法について教えを受けることなどはなく)2年間を過ごしたそう。ルビオのギター作りはその根底にサントス・エルナンデスやドミンゴ・エステソの影響が如実に表れており、これはこの時の経験によるものと思われます。その後ギタリストとしての確かな腕前を認められ、彼はあるフラメンコ楽団の演奏旅行に同行し、1961年にアメリカ、ニューヨークの地を訪れます。この都市の魅力に刺激されたのか、彼はここでまたしても軽快に方向転換し、ギタリストの職を辞して同地に留まることを決意。2年間夜学に通いながら家具製作工房で働き、1963年グリニッチヴィレッジに自身のギター工房を設立します。全く驚くべきことに彼はスペインのギター工房で見て記憶した技術だけで、造作的にも芸術的にも極めて完成度の高い楽器を最初から作っています。そして素晴らしい偶然がここで起こることになるのですが、工房を開いて数か月が経った頃、ちょうどニューヨークを訪れていた名手ジュリアン・ブリームがコンサートで使用していたロベール・ブーシェのギターの修理依頼にルビオを訪れます。その修理内容に満足するとともにルビオの才能を見抜いた彼はブーシェコピーの製作を提案すると、ルビオはこの歴史的名品の構造的特徴を瞬時に理解しさらにそれを見事に応用したギターを製作。ブリームは1966年製と1968年製の2本のルビオ製作のギターを愛用することになり、彼の名盤の一つ「20th Century Guitar」などで使用しています。
ネック:マホガニー
指 板:エボニー
塗 装:表板 セラック
:横裏板 ラッカー
糸 巻:フステーロ
弦 高:1弦 2.7mm / 6弦 4.1mm
[製作家情報]
David Jose Rubio (1934~2000)本名David Joseph Spink。20世紀以降のイギリスにおけるクラシックギター製作の嚆矢となり、その後の文化的素地を形成し、現在もフォロワーの絶えることない多大な影響力を有した天才的な製作家です。またその才能はクラシックギター製作のみならず、1970年代以降はハープシコードやバロックヴァイオリン等の製作においても発揮され、当時ちょうど再発見のブームにあった古楽演奏のフィールドに大きく貢献しています(彼の製作したハープシコードは古楽演奏の大家グスタフ・レオンハルトがバッハ演奏のレコーディングで使用しています)。彼の工房ではポール・フィッシャー、E.B.ジョーンズ、カズオ・サトーら多くの優秀な弟子をスタッフとして登用し、それぞれが独立後もすぐれて創造的なギターを世に出していることからも、メンターとしても非常にすぐれ、かつインスピレーションを喚起する存在であったことがうかがえます。
ルビオ自身の経歴はとてもユニークかつ「アーティストらしい自由な」もので、大変に濃密。青年期から医学を志し専門学校に通っていましたが、色盲のためこれを断念。それから一気にシフトチェンジし、スペインに渡りジプシーコミュニティとの交流のなかでフラメンコギターを演奏するようになります(この時彼はセビージャ出身のフラメンコギタリスト、Pepe Martinez に演奏の手ほどきをうけています)。スペイン各地を廻り、それぞれの地でいくつものギター工房を訪れた彼ですが、特にマドリッドでは当時はまだEsteso を名乗っていたコンデ・エルマノス工房に「ギタリストとして無駄話をしに」行き、ファウスティーノ・コンデが製作する様子を見つめながら(決して製作法について教えを受けることなどはなく)2年間を過ごしたそう。ルビオのギター作りはその根底にサントス・エルナンデスやドミンゴ・エステソの影響が如実に表れており、これはこの時の経験によるものと思われます。その後ギタリストとしての確かな腕前を認められ、彼はあるフラメンコ楽団の演奏旅行に同行し、1961年にアメリカ、ニューヨークの地を訪れます。この都市の魅力に刺激されたのか、彼はここでまたしても軽快に方向転換し、ギタリストの職を辞して同地に留まることを決意。2年間夜学に通いながら家具製作工房で働き、1963年グリニッチヴィレッジに自身のギター工房を設立します。全く驚くべきことに彼はスペインのギター工房で見て記憶した技術だけで、造作的にも芸術的にも極めて完成度の高い楽器を最初から作っています。そして素晴らしい偶然がここで起こることになるのですが、工房を開いて数か月が経った頃、ちょうどニューヨークを訪れていた名手ジュリアン・ブリームがコンサートで使用していたロベール・ブーシェのギターの修理依頼にルビオを訪れます。その修理内容に満足するとともにルビオの才能を見抜いた彼はブーシェコピーの製作を提案すると、ルビオはこの歴史的名品の構造的特徴を瞬時に理解しさらにそれを見事に応用したギターを製作。ブリームは1966年製と1968年製の2本のルビオ製作のギターを愛用することになり、彼の名盤の一つ「20th Century Guitar」などで使用しています。
1967年にイギリスに戻り、ブリームの勧めでSemleyに彼の所有する敷地内の邸宅を工房として製作を継続。ブリームの名演によって一気に世界的な名声と需要が高まり、1969年にはOxford 近くのDuns Tew に工房を移転します。ここでポール・フィッシャーが工房スタッフとして加わるとともに、ルビオの製作する楽器ジャンルも一気に多様化してゆきます。特に古楽器のジャンルでの展開は目覚ましく、ハープシコード、リュート、ビウエラ、テオルボ、バロックギター、ヴィオラ・ダ・ガンバ、バロック・ヴァイオリン、バロック・チェロ等ほぼ主要弦楽器を網羅しており、当時の世界的な古楽ブームとあいまって飛躍的に需要を伸ばします。1980年代にはさらにCambridge に工房を移転し、ピリオド楽器だけでなく現代の工法による弦楽器にもラインナップを拡げてゆきます。このような製作事情から1970年代以降はルビオ自身によるクラシックギターの本数はかなり少なくなり、出荷されるルビオラベルの大半がフィッシャーらの職人によるものになっています。このことからルビオ本人作のギターには特別な価値がつくようになり、その判定の可否もしばしばギターマーケットでは話題になりますが、本人直筆のサインの有無(ボディ内部、ラベル等に書かれたもの)を判断基準とするのはいくつかの事例から考慮しても早計に過ぎると言わざるを得ないでしょう。
ルビオ本人によるギターは、その細部に至るまでの精緻な造作と良材の選択、威容と気品を備えた外観とデザインは彼の出自であるスペインの伝統の深みを十分に感じさせながら、同時に現代的でとてもスタイリッシュなもの。そしてやはり彼の特徴はその音色と響きにあります。異様な密度をもつ単音とそのサスティーン、深みと艶、アイデンティティをしっかりと持った表情の繊細さと豊かさ、全体の透徹としたバランスと迫力など、すべてがクラシカルな表現に相応しく、比類のない素晴らしさ。初期のニューヨーク時代からイギリス時代後期に至るまで作風を少しずつ変えていっており、特にニューヨークからSemley時代のものが人気が高くなっていますが、この時期の繊細な力強さとはまた趣を異にする1970年以降のものは、そのどっしりとした悠揚たる響きゆえに他にはない魅力をもっています。
[楽器情報]
デビッド・ホセ・ルビオ 製作 1971年製 Usedです。ラベルはかなり傷んでおりますが本人サインが確認できます。また表面板内部の高音側にも年式と本人サインがあります。表面板はセラック塗装ですが横裏板は過去にラッカーによる再塗装が施されています。表面板全体に弾きキズ、スクラッチあと、打痕等大小長短のものが経年相応にあり、また演奏時に右ひじの当たる部分は塗装の摩耗と変色が生じています。横裏板は衣服の摩擦あとや裏板の中央部分などに細かな打痕が集中していたりなどしています。ネック裏はきずはほとんどありません。全体に経年相応の使用感はあるものの割れなどの大きな修理履歴はなく、またネック・フレットなどの演奏性に関わる部分も良好な状態を維持しています。
ルビオはそのキャリア初期となる1960年代後半のニューヨーク時代からイギリスに帰国してのちの1970年代にかけての短い期間でも実はかなり大きな作風の変容を見せていくのですが、1971年の本器においてはその過度期ともとれる特性が見て取れます。ジュリアン・ブリームが適切にその響きを「銀鍾のような」と表現したルビオのニューヨーク時代の最良のものは、その言葉の通り濃密さと拡がりと輝き(しかしどこか翳も含んだ)とによって特徴づけられる、ほとんどギターならざる美しさを有した響きの楽器でしたが、イギリス時代に入ると響き全体が太くなり、弦楽器的な木質の味わいが濃厚なギターへと変わっていきます。
スペインギターに特有の発音の際の「粘り」や「反発感」あるいは弦の弾性感やアタック感とも異なる、まさしく鐘を鳴らす(叩く)ような発音で、独特の倍音構成があり、基音があくまでもくっきりとしてシャープな身振りなのですが、同時に空間性があります。反応も速く、演奏をしていると両手ともに音が指の動きよりも先にどんどん出てゆく感覚があります。すべての音が同じ強度で鳴りますが、高さと低さのベクトルがあり、その高低のベクトルが和声感を生み出しています。これは例えばヘルマン・ハウザー的な音響とは異なる意味で鍵盤的であり、単音の楽音としての実在性が異様に高く、それでいて全体が互いに調和しているという、ルビオ独自の音響。本作はその響きにほのかに木質の温かみが加わっており、全体に太めの音になっています。
表面板力木配置は、サウンドホール上側(ネック側)に2本のハ-モニックバー。下側(ブリッジ側)にも1本のハーモニックバーを設置していますが低音側には4~5センチほどの幅で高さ数ミリの開口部が設けられています。扇状力木は左右対称7本が設置され、これらの下端をボトム部で受け止めるようにV字型に配置された2本のクロージングバー、そして上部を波型に加工したバーがブリッジプレート(サドル)と同じ線上に高音側だけに設置されており、7本の扇状力木のうち一番高音側の2本のみがこのバーを貫通しています。このバーと扇状力木との構造的な関係はロベール・ブーシェのいわゆるトランスヴァースバー(ブーシェのこれは表面板横幅ほぼいっぱいにわたって設置され、扇状力木すべてがこのバーを貫通する形になっている)に影響を受けながら、それを高音側だけに、しかも上部を波型に加工して設置するというクリエイティブな採用を行っています。さらにはこのバーはここでは力木と接触しておらず、開口部をぎりぎり通り抜ける形になっており、この点もブーシェ的設計と異なります。また7本の扇状力木は厳密には左右対称ではなく、一番低音側の一本はサウンドホール下側バーに設けられた開口部をくぐり抜けてホールの周りに貼られていり補強板の縁にまで延伸しており、またこの力木を最長として、高音側に行くに従って力木の長さが少しずつ短くなっており、一番高音側の1本は低音側のものの3/4ほどの長さになっています。レゾナンスはF#~Gの間に設定されています。
ネックはやや太めな感触ながらもDシェイプの薄く角の取れたラウンド感のある形状ですのでグリップ感は自然な感触です。弦高値は2.7/4.1mm(1弦/6弦 12フレット)でサドル余剰は1.0~2.0mmとなっています。糸巻はスペインのブランド Fustero のフレタタイプに交換されており、現状で機能的に良好です。