ホセ・ルイス・ロマニリョス著

「アントニオ・デ・トーレス/     

ギター製作家−その生涯と作品」-抄訳

"Antonio de Torres Guitar Maker - His Life & Work"
Revised and Augmented
Jose L. Romanillos and Marian Harris Winspear,
The Bold Strummer, Ltd., Westport, CT, USA.

アントニオ・デ・トーレス表紙画像

  本抄訳は、著者のホセ・ルイス・ロマニリョス氏より、著書紹介を目的として、当ホームページ上のみでの掲載を条件に特別許可を得たものです。このため転載、引用等は固くお断り致します。

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 はじめに
 アントニオ・デ・トーレスはギターのストラディバリと言われ、現代のコンサートギターの原型を完成させた偉大な製作家です。現代のギター製作家は、多かれ少なかれ彼の影響を受け、残された作品は製作の原点として研究されてきました。しかし、ストラディバリウスと同様、トーレスの技術は現在もなお十分に解明されてはいません。現代の製作家が誰も到達できないその秘密はどこにあるのでしょうか。製作家のみならず、すべてのギター愛好家にとって興味をそそられる話題ではないかと思います。
 現代の最もすぐれた製作家のひとりであるホセ・ルイス・ロマニリョスはトーレスの研究家としても有名で、「アントニオ・デ・トーレス/ギター製作家−その生涯と作品」はロマニリョスの代表的な著作であり、高い評価を受けています。アウラでは彼に直接許可を受け、ここに抄訳を連載でお届け致します。誤訳のないように、また読みやすいように努めてまいりますが、お気づきの点がありましたら、メールでご連絡いただけると幸いです。(AURA 2000.11.3)


  1.年 表
1810-1817  トーレスの両親がラ・カニャーダ・デ・サン・ウルバノに居を構える。
1817      アントニオ・デ・トーレス・フラードがラ・カニャーダ・デ・サン・ウルバノで誕生(6/13)。
1834      両親とヴェラのエスカラマル通りに住み、徴兵に取られる。
1835      ロルカの地方連隊に数ヶ月勤めたのち除隊となる。
1835      ヴェラでファナ・ロペスと結婚(2/16)
1836      妻ファナとヴェラのアンチャ通りに住む。
1836      長女マリア・ドロレス誕生(5/13)
1837      ヴェラの大工の名簿にトーレスの名が登場する。両親がラ・カニャーダ・デ・サン・ウルバノにもどる。
1839      税金滞納のため、差し押さえを受ける。次女ホセファ・マリアが誕生するが、幼くして死亡。
1842      三女が誕生し、同じくホセファ・マリアと名付けられたが、数年後に死亡。
1845      妻ファナ・ロペスがヴェラで死去(3/13)。セヴィリアへ転居。
1853      セヴィリアのガリェゴ通りに住む。
1854      セヴィリアのバリェスティージャ通りに住む。
1856      セヴィリアのセラヘリア通り32番に転居。
1858      銅メダルを獲得。ホセファ・マルティン(後の妻)がセヴィリアに居をかまえる。
1860      トーレスの長男、テオドーロ・トーレス・マルティンが結婚を待たずに誕生。
1862      イサベル・トーレス・マルティンがセヴィリアで誕生。
1866      ホセファと共にセラヘリア通り25番に転居。
1866-1867  石工からセラヘリア32番の工房を譲り受ける。
1868      トーレスの次男、アントニオ・トーレス・マルティン誕生。
1868      ホセファ・マルティンとセヴィリアのサルバドル教会で再婚(11/7)。
1868-1869  タルレガが訪れ、トーレスのギターを購入する。
1869-1870  セヴィリアを去り、アルメリアに転居。
1872-1873  アルメリアでマチルデ・トーレス・マルティン誕生。
1875      ギター製作の第2期が始まる。
1876      末娘アナ・トーレス・マルティン誕生。
1883      妻ホセファ・マルティン・ロサードがラ・カニャーダ・デ・サン・ウルバノで死去(2/22)。
1884      バルセロナを訪れる。
1885      バルセロナを訪れる。
1892      アルメリアのランブラ・デ・アルファレロス8番で死去(11/19)。翌日、埋葬。
1899      共同墓地に埋葬。

 第5章 材料
 トーレスは、側板と裏板に主としてシープレス、ローズウッド、メープルを用いた。しかし、トーレスが特定の材料を好んで用いていたのかを確認することは難しい。それは彼が製作したギターのうち、1/5程度しか残されていないためである。残されたギターから推定すると、彼が最も気に入っていたのはローズウッドで、次がメープル、そしてシープレス、マホガニー、ウォールナット、桜、アカシアの順である。トーレスが使用したローズウッドはブラジルのDalbergia nigra の類で、インドのDalbergia latifoliaやDalbergia cearensis(kingwood)とは、性質や色、模様、香りが異なる。ブラジリアン・ローズウッドは、1492年のアメリカ大陸発見後、すぐに楽器製作に取り入れられたと推定される。ある1566年の楽器の明細表には、「ブラジルウッド」とユソウボクを使ったリュートとコルネットの記載がある。この「ブラジルウッド」は、leguminosae科のCaesalpinia echinata(ペルナンブコ)であるかもしれない。これはローズウッドと同様、織物工業の染料を取る目的で使用され、大量にセヴィリアに輸入されていた。16世紀には、ローズウッドはサント・ドミンゴからスペインにもたらされ、百キロで306マラヴェディ貨で取り引きされていた。その後各種の木材が、当時スペイン領だったポルトガルを経由してスペインに輸入された。シダー(杉)、黒檀、ローズウッド、メープル、ウォールナット、シープレスといった木材はすべて18世紀にはギターの材料として用いられていた。しかし、ローズウッドがクラシカルギターに最も適した材料として受け入れられるようになったのは19世紀半ば、トーレスが使用してからのことである。
 トーレスは、使用する木材を、どのようなギターを望むか、または木材のストックがあるかどうかで決めていた。彼は少なくとも8種類の木材を使用していたことが知られており、実験的にボール紙で作られたギターも存在する。このギターは、表面板こそがギターの基本性能を決める部分であり、音質全体を左右する部分であるという彼の信念を証明するために作られた。彼の本当の目的が何であったか記録は残されていないが、側板と裏板に用いる板はギターの音にそれほど大きく影響しないということを証明したかったのだと推定される。プジョール(訳注:タルレガの弟子で演奏家)もこのことに同様の見解を示している。ギターの胴を作るとき、トーレスの判断の基準は、材料の音響的な性質にではなく、主として美的な面や材料の入手のしやすさにあった。彼の残した作品がそのことを示している。たとえば、locust wood(ceratonia siliqua)は、節穴、傷、渦模様などがあり、音響的にすぐれた材料としてトーレスが選択することはなかった。しかし彼は、数本のギターに見られる「鳥の目模様」のメープルと同様、外見的な華麗さを得るために、この木を選択することがあった。色の濃いローズウッドよりもメープルを用いたものに念入りな装飾がなされたのは、偶然のことではなかったのである。シープレスはメープルに比べ、美的な面での魅力に欠けるため、トーレスは第二の選択肢として安価なギターに使用していた。しかし特に求められば、彼はコンサート用のギターにさえシープレスを使っただろう。
 88本残されているトーレスのギターのうち、24本は裏板と側板にローズウッドを使用している。そのうち17本はセヴィリア時代に製作されたものである。ローズウッドの質と模様は各々かなり異なっており、裏板として何枚も貼られている。たとえば FE09 は一見すると4枚を貼り合わせてあるように見えるが、入念に調べると、バランスと木の幅を得るために鳥の翼のように重ね合わせてあることがわかる。トーレスは裏板を3枚以上の板を接ぎ合わせて製作したが、それは必然性があったからではなく、主として2枚で製作できる幅をもった材料を入手できなかったためである。そしてトーレスは、少なくとも9本ローズウッドのギターを伝統的な2枚接ぎで製作していることから、3枚、4枚接ぎの場合は適当な幅の材料が手に入らなかったたためと推測するのが妥当であろう。2枚であれば、明らかに製作が楽になり、工程や接着も3枚以上の場合より短縮できる。3枚以上になると、接合部に使用する部品もさらに必要となる。
 トーレスの末裔によると、次のような逸話が残されていて、彼が常に良い材料を求めて目を開いていたことがわかる。ある日レアル通りを歩いているとき、彼は娘の夫フランシスコ・サルバドールが家の戸口の素晴らしい木目の板を漆喰で塗り隠そうとしているのに気づいた。トーレスはフランシスコをたしなめ、「つまらない部分にそんな良い木を使わないで、知らせてくれたら良かったのに。ギターを作るのにとても良い材料だ。」と言って、十分な量の粗末な木と交換して行ったという。残念ながらその木が何であったかという記録は無く、推定する他ない。しかしこのことは、トーレスがどんなものからでも、古い家具からであろうと材料を得ようとしていたのであり、彼が望んだほどには材料のストックが充分なかったことを示している。
 スプルース
 トーレスが使った表板を詳細に調べてみると、多くは2枚をひとつの材料から得たのではなく、今日市販品に見られるように別々に選別して作成している。ほんの僅かの場合を除いて左右対称にはなっていない。彼は、ボール紙製の胴を含め、いくつかのギターで2枚の年輪の間隔をできるだけそろえようとしたため、一見すると同一であるように見える場合もある。響板を詳細に調べてみると、それらは実際には非常にたくみに組み合わされた別の板であることがわかる。二つの表面板について顕微鏡観察をしてみると、ヨーロッパスプルース(Picea)とおそらくPicea excelsaが使われている。スプルースとモミ材はとてもよく似ていて、主な違いとしては、モミ材にはヤニの導管がないことが挙げられる。両者を外観から見分けることは難しい。トーレスが使用したすべての表面板からサンプルを採取することはできないので、そのうち2つについてスプルースが使用されているとしても、常に表面板にスプルースを使用したかという質問に答えることはできない。残されている表面板が外観上似ていることは、3つの例外を除き、トーレスがスプルースを標準と考えていたことを示唆している。ある種のモミ(Abies pectinata)はピレネー地方に見られるが、スプルースはすべてスペインへの輸入品であった。1856年製のギターの内部には、1812年に入手したマラガの松であるという鉛筆書きが見られる。この謎めいた資料は、南スペインのシェラ・デ・ロンダで見られるPinaceaeの仲間であるpinsapo tree(Abies pinsapo)を表面板として用いていた可能性を示している。2台のトーレスから得られたサンプルでは、木目の繊維はサンプルの方向に完全に平行になっている。このことは、完全な柾目であることと合わせて、基本的な考察のひとつであり、トーレスにとっては年輪の均一性や対称性よりもずっと重要な問題だった。彼は次のような条件で表面板を製作した。
   (a) 木の繊維が表面板に平行であること
   (b) 年輪が表面板に垂直方向となる柾目であること
   (c) 年輪の狭い側を中央にもってくること
この3つの因子は、厚さが部分的に1.4mm以下となるような表面板をもつギターを製作する場合には、非常に重要である。
 トーレスが製作したギターの表面板の多くが左右異なる板であることについて、これまでもいろいろと言及されてきた。これは2つの要因によると考えられる。ひとつは適当な材料が不足していたことで、もうひとつは完全な柾目の表面板を得る必要性である。セヴィリアにもアルメリア同様にスプルース材はたくさんあったが、表面板には適さなかった。トーレスは、同じ板から表面板を作るためには、かなり均一な年輪の板を探さなくてはならなかった。彼がもし十分大きな板を手に入れていたら、もっと多くの左右対称の表面板を得ることができただろう。トーレスは柾目の板を入手することにばかり集中していたので、年輪の断面が表面板に対して垂直となるように、市販の板を削りなおさなくてはならなかった。これは一般の製材を楽器用の材料に転換する際に非常に重要な事柄である。というのは、年輪の方向が垂直面からずれるとヤング率が変化し、そのため表面板の弾力も変わってしまうからである。現存するうちの5本のギターは3枚と4枚から製作されており、11本以上が表面板の中央をはずして接合されている。このことはトーレスが表面板を製作するために十分な幅をもった材料や、完全に一致する2枚をなかなか得られなかったことを示している。彼が2枚の板を使って中央で接合することを望んだことは疑う余地がない。中央の力木が接合の役割を兼ねる方がより良い製作方法だからである。
 年輪の幅が一定でないことは、現存するギターから明らかである。間隔は、25mmあたり9個から46個まで変化している。トーレスは間隔の狭い方を中央に向けることを好み、2本を除くすべてのギターにこれが見られる。例外的な2本については間隔の狭い方が低音側となっている。通常とは異なった、年輪幅の向き、粗悪な材質、接合部が中央を大きくはずれていること、2本に共通して9年間の中断の後製作されたギターであることは、彼が良い材料を入手することができなかったことを示すもうひとつの証拠である。
 トーレスが表面板を乾燥・シーズニングしていた方法はほとんどわかっていない。しかし、彼の友人であり、助手でもあったMartinez Sirventは、Pinabete sangrado (bled spruce) の類がその中にあったと記録している。それは1856年に製作されたLa Leonaの表面板に使われたスプルースと同種である。彼はギター製作をよく知っていて、じかにトーレスの製作方法を見ていたとはいうものの、司祭であり、トーレスから聞かない限り本当にbledかどうかわかるはずはない。La Leonaの表面板は、他のどの作品に使われたスプルースと比較してもほとんど違いがない。この「bleed(松脂を除く)」ということが、表面板として使う上で必須の過程だったのか、それとも単に特殊なスプルースの流通上の名前だったのか、わかってない。おそらく、輸入業者が使っていた専門用語であろう。19世紀のヨーロッパにおいては、スプルースから樹液を採取することは、松脂を得るため、とりわけブルゴーニュ松脂や医薬品を製造するために試みられていた。
 トーレスが他に松脂の除去の類を行ったかどうかは推測する以外ないが、彼がアルメリアやセヴィリアの降り注ぐ太陽を表面板のシーズニングに利用した可能性は非常に高い。今日でさえ、スペインには表面板を乾燥させるために直接太陽光にさらす製作家がいる。トーレスの後継者達によれば、彼はazoteaという、伝統的な乾燥方法を取っていたと言われている。Azoteaはトーレスの最後の家であるカニャーダ・デ・サン・ウルバノのレアル通り80番地で見ることができる。Azoteaというのは、平屋の住居の平らな屋根のことで、アルメリアの人々が少ししか降らない雨を集める手段としていた。亜熱帯の地域では、年に300日も晴天が続き、年間の平均雨量が約223ミリしかないため、水は大変貴重なものである。Azoteaは、同時に日よけとしての意味があり、保存を目的として木材や農産物を乾燥させるのに理想的な場所でもある。木材を日光にさらすことが音響的な変化をスプルースにもたらすという考え方には根拠があるわけではないが、いくつかの擁護すべき理由がある。木材に直接日光を当てるのでないとしても、少なくともスプルースの状態を調整するのに有用である。人は、トーレスのような職人はギターを作る上で自然の力を生かす方法を知っていたと思いがちである。スプルースは、bledであろうがなかろうが、複雑な組織をもっており、水だけでなく、内部にセルロース、でんぷん、リグニン、レジン、タンニンのような化学物質を含んでいて、スプルース材の音響性能を決定づけていると考えられる。

 第6章 表面板のパターン
 トーレスの作品のもともとの形状がどうであれ、彼は表面板の設計とレイアウトを完全に考え直さなくてはならなかった。彼はウェストの位置を、サウンドホールの下端に一致させ、ボディ長の約2/5としていた。これは、ファンおよびホセ・パヘス、ヨゼフ・ベネディッド、ヨゼフ・アルカニス、イクナシオ・デ・ロス・サントス、ルイス・パノルモの作品に見られるように、先人達が確立した伝統に沿っている。ブリッジ(駒)の位置を、ボディの下部の膨らみの位置から、振動の中心となる位置と一致させるために移動したことは、現代のコンサートギターの設計において基礎となる重要な点であり、新しい響きへ展開する上で、間違いなく、最も顕著な一歩であった。同様の発想はトーレス以前に、ファン・モレーノとルイス・レイグによってなされていたが、これらの職人は気まぐれに試みただけだった。モレーノは表面板にメープルを使っていたし、レイグはガラス製の表面板を導入したり、力木やネックを中空にしたりしていた。トーレスは、鋭い判断力と、正しい姿勢と適切な材料による実験により、妥当な板の厚さを見出した。その結果得られた音の変化は、小型ギターのリュートのような共鳴音に慣れた耳にとって、これまでにないものだったに違いない。ボディの1/5くらいの位置に取り付けられていたブリッジが約1/3の位置(振動の中心)へ移動したことは、わん曲した表面板ではブリッジの位置が偏ったものに比べて優れた振動が得られ、したがって表面板にかかる緊張度は平均に拡散することを意味している。このブリッジ位置の変更は、音の鋭敏さに新たな幅をもたらし、とくに低音の厚みに見られるように共鳴を増強した。そして、初期の作品に見られる打撃音を減らし、均一で伸びのよい音を楽器に与えることになった。トーレス型が作り出した新しい響きがすぐに注目され、ヨーロッパ中のギター愛好家に広まったことは疑いない。
 トーレスは同じ寸法の表面板で製作することはなかったと主張する研究者もいるが、これは次の例によって割引かれるべきだろう。トーレスのギターには西洋梨型のギターを除いて5種類の基本的な設計がある。初期は偉大な実験の時期であって、第二期と同様、同じ設計と寸法で同じギターをいくつも製作している。すでにこの時期、他の製作家に比べて寸法が大きい。1850年代の終わりに、彼はついに終生製作し続けるコンサートモデルに採用される大型の形状を導入した。これがリョベートがコンサート用に使用したギターである。1864年、タルレガのために製作された寸法は、トーレスはほとんど使用していなかったと思われる。数種の異なる寸法が存在しており、彼がなぜそのように複数の寸法を採用していたのかを確認することは容易でない。彼は、少なくとも初期に、基本構成を変化させた試作品をかなり製作していたと思われる。2つの半円と鋭くしぼられた胴をもつ外形は、最大限の強度が得られるように設計された頑丈な構造となっており、リブの厚みは1.0ミリしかないが、曲率によって強度が得られている。トーレスのギター製作の見地は、外形の設 計過程にもうかがわれ、リブの曲率が大きくなっていく。他の関連する因子としては、材料の木が得られるかどうかがある。多くの場合(とりわけ安価なギターでは)材料が得られるかどうかで寸法が決まる。トーレスは、高級なギターに適さない材料を使うために、「布の大きさに合わせて、コートの長さをカットしなくてはならなかった」。このような外形の調整は現在、2本の作品で確認できる。

 第4章 19世紀以降の製作家
 ホセ・ラミレスの師はフランシスコ・ゴンサレスと考えられている。彼はギター製作家のマドリッドスクー ルの設立に基金を提供したとされているが、設立したのはおそらく、フランシスコではなく、マルコス・アントニオ・ゴンサレスであると思われる。彼は1860年にトレド街に工房をもち、軽いギターを製作したが、すでにトーレスの影響が見られる。彼の存在から、ラミレス兄弟に見られるように、ギター製作の原理として、2つの主な流れがあることがわかる。つまり、伝統技法の継承と、マドリッドスクールの革新的なアイデアである。ゴンサレスが残したいくつかのギターは、大型のボディをもち、新しい技法が反映されている。
 ゴンサレスの最盛期、新たに、そしてさらに続く影響がマドリッドスクールから起こる。1860年代初頭にはトーレスのギターはマドリッドでも知られていたが、トーレスの技法が実際に取り入れられたのは1880年代の後半、マヌエル・ラミレスによってであった。変化は次のような音楽批評から始まった。「ウェルタ氏の昨夜の演奏に使われたギターは、優れた巨匠、アントニオ・カラーセドの作品であり、繊細で輝かしい音を作り出していた。これはスペインギター製作の進歩を示すものだ。」アントニオ・カラーセドのこの時期のギターはすでに現代のものであり、表面板の幅が大きく、扇形の力木をもち、高さのある指板と現代的なブリッジを備えている。
 トーレスの影響が当時どの程度のものだったか推し量ることは難しい。この時期の製作家の作品で残されているものが少ないためである。現存するものについて調べてみると、細かい点までではないにしろ、少なくとも原理的にはトーレスの思想が受け入れられている。トーレスが1856年までには確立した開いた力木は、1863年のエウスタキオ・トラルバのギターに見ることができる。このギターは通常の力木ではなく、サウンドホールの下部に非対称の力木が導入されている。2つの系統の製作法がホセ・ラミレスと弟のマヌエル・ラミレスいう同じ系統のファミリーから起こっていることは興味深い。ホセが古い製作方法にこだわったのに対し、マヌエルはホセの工房で学んだが、やがてゴンサレスの方法を捨て、トーレスの新しい進歩的な方法を選択していった。
 マヌエルは1864年にアラゴンのアルアマで兄と6歳違いで生まれた。父は大工の棟梁で、サラマンカの財務局や不動産業者、マドリードの軍等で仕事をしていた。ホセは父親がマドリードで働いているときに生まれ、12歳のときにゴンサレスの工房で働き始め、そこでギター製作の基本を身につけた。1893年、彼はギター店を営む許可を得、コンセプシオン・ヘロニマ通り2番に開店する。現在のラミレス家の末裔による逸話と、残された作品から得られる情報は、二人の関係とギター製作に対する考え方の違いを垣間見せてくれる。彼らの作品はそれ自体、製作技術に関する限り輝かしいものであるが、一方では、ホセは頑固にゴンサレスから学んだことを守りつづけたのに対し、マヌエルの作品は軽く、ゴンサレスの影響をほとんど受けていなかった。ホセの作品は典型的なタブラオ用ギターに見られるように、大型でがっちりしていて、高度に弓型の表面板をもち、主としてフラメンコ用に作られていた。カフェ・カンタンテの全盛時代であった当時、非常に人気があった。ラミレス家の言い伝えでは、マヌエルは兄の工房で修行していたが、口論をした挙句に二度と口をきかなくなってしまった。口論の原因は、ホセがマヌエルのパリ移住に同意するとき、ホセの工房で学んだゴメス・ラミレスの工房を継ぐことにあったらしい。ラミレス家の末裔によれば、マヌエルはパリへは行かず、プラサ・サンタ・アナ5番に工房をもった。おそらく二人の口論の背後には、単にマヌエルの素直でない態度だけでなく、もっといろいろな事があったと推察される。若いマヌエルにとっては職人のプライドが関わっていたかもしれない。
その頃はまだ兄の工房にいたが、兄のスタイルよりも、むしろトーレスの方法によるマヌエル独自のギターを製作していた。そのことはこの時期の彼の作品にはっきり見ることができて、マヌエルは印刷されたラベルの上に細長い紙を貼り、兄の工房の場所である 24 calle Cava Baja という部分を覆っていた。残念ながらその紙片ははがれてしまい、そのすばらしいギターが実際に作られた場所を示してはいない。それは、その後彼が工房を開く場所であるプラサ・サンタ・アナだったのかもしれない。このラベルを使用したのは、新しい工房で製作を開始したばかりだったことを示している。そうでなければ、後のギターのラベルと同じように印刷されたものにしただろう。
 マヌエル・ラミレスの作品の歴史的重要性は、どんな情報が得られようともパッチを貼り付けたラベルにあるのではなく、彼の兄弟や同時代の製作家の作品とは完全に異なる製作技法にある。彼のギターの形状と寸法にはトーレスの影響である軽い設計、スプルース3枚はぎの表面板と8本の扇形力木の採用が見られる。しかし、そこには兄の影響も多少残っている。駒(ブリッジ)の形状はトーレスのようにオーソドックスな角型ではなく、両端が丸くなっている。マヌエルにとって、新しい流派は探求への地平線を示すものであり、新たな可能性を与え、後にわかるように、ギター製作に長く輝かしい結果を与えるものだった。一方、ホセ・ラミレスは断固として彼の製作方法を変えようとしなかったが、マヌエルはごく初期からトーレスの後継者とみなされていた。新しいギター製作の可能性を探求する彼の意思は、数種の力木の配置、中央の力木の除去に見られる。これはとりわけ3枚はぎの表面板をもつギターに明らかで、ヴィセンテ・アリアスの作品に製作方法の類似がある。1903年のヴィセンテ・アリアスの作品には中央をはずした7本の力木が見られ、マヌエルの方法の影響である可能性がある。
 マヌエル・ラミレスはトーレスのギターに広く接する機会をもっていた。1902年には、現在ホセ・ラミレスIII世のコレクションにある作品を修理し、1908年にはFE30、1912年には1883年製の、現在はパリ楽器博物館に所蔵されている作品を修理している。トーレスの影響はマヌエル・ラミレスの1912年に美しく製作されたギターに見ることができる。そこには彼によって取り入れられたトーレスの構想のすべての要素があり、トーレスの作品のレプリカのように見える。このギターは、アンダルシアのギタリストであるゴンサレス・カンポスの依頼で製作された。このことはカンポスがマヌエル・ラミレスにトーレスと同じようなギターの製作を勧めていたことを示唆している。この作品の形状はトーレスが1880年代の終わりに製作した大型のボディとほぼ同型である。しかし彼のすべてのギターが特定の完成した型から製作されていたわけではなく、他の製作家と同様に、別の作品には異なる発想を取り入れた可能性もある。フラメンコギターでは兄のホセに近い方法で製作しているし、他の作品ではトーレスの要素を取り入れている。彼はトーレスと同じ形の力木、すなわちヤリ型も丸型も使用したし、その数も5から8まで変えていた。彼のトーレスへの思いは彼の最高級ギターに見られる基本的な構想だけでなく、トーレスが使ったサウンドホールのアコヤ貝の装飾や縁のヒイラギの装飾からの影響も見られる。
 1916年2月25日、マヌエル・ラミレスの早すぎる死は、ギターの発達にきわめて重要な時期において最も優れた製作家をギターの世界から奪い去った。そして今日でもマヌエル・ラミレスがトーレス以来最も影響力のあった製作家であるとみなす人は多い。彼は繊細で、思慮深く、想像力に富んだ製作家であり、深い洞察力をもってトーレスの原理を追求し、優れたギターを製作するように職人達を鼓舞することができる人物であった。
 彼はトーレスの原理をより発展させることに貢献し、多くの優秀な職人を育てた。そうした職人達は20世紀の最も優れたギターを作ることになるのである。おそらくマヌエル・ラミレスの工房で作られた最も重要な作品は、1912年にヒメネス・マンホンのために製作され、実際にはセゴヴィアに贈られたギターであろう。そのころセゴヴィアはマドリードのアテネオでのコンサートの用意をしていた。セゴヴィアはマヌエル・ラミレスの工房に連絡をとり、リサイタルに使うギターを貸してほしいと申し出た。マヌエル・ラミレスはセゴヴィアが1912年製のギターを弾くのを聴き、その若者はギタリストとして無名であったが、名声が約束されていることを直感した。マヌエル・ラミレスがセゴヴィアにそのギターを見せたときの様子は、彼の寛大さと同時にビジネス感覚を表している。セゴヴィアは後にこのギターをニューヨークのメトロポリタン美術館に寄贈している。1991年から翌年にかけて開催されたスペインギター博覧会の際に、私はこのマヌエル・ラミレスとサントス・エルナンデスが製作したギターを詳細に調査する機会を得た。このギターはもともと11弦ギターとして製作され、セゴヴィアに贈られる前6弦に改造されたと思われる。ヘッドの裏には穴を埋めた跡があり、ネックの付け根のブロックも、現存するマヌエル・ラミレス/サントス・エルナンデスのものより長く大きい。ジークフリート・ホーゲンミューラーによると、1912年ごろアルラバン通り11番にあったマヌエル・ラミレスの工房の外で撮られた写真に同じようなギターが写っているという。
 サントス・エルナンデスは、職人頭だったが、マヌエル・ラミレスの死により、サントス自身の工房を持つまでマヌエル・ラミレス工房のまとめ役をしていた。サントスはマヌエル・ラミレスのもとで製作技法を身につけ、セゴヴィアの1912年製のギターを実際に製作したのはサントスであった。
 マヌエル・ラミレスからギターを贈られたときのセゴヴィアの話はいくつかの手がかりを与えるものであり、そのギターが一人の職人によって製作されたのではなく、数名によって製作されたことを示している。そのひとつに、マヌエル・ラミレスがヒメネス・マンホンと価格のことで口論となり、怒って「うちの職人は連携して作業しており、作品はすべての職人達の良心と技術の結晶なのだ。その価値を不実にも引き下げようというのか!」と言ったという話がある。
 セゴヴィアは自伝の中で、1912年のギターの由来について更に述べている。「彼の工房の最高の職人達はサントス・エルナンデスに率いられていた。ラミレスはサントスに彼の最上のギターを持ってくるように言った。私はサントスから受け取り、音を出してみる前にそのギターをゆっくりと眺めた。」 セゴヴィアの自伝の後の方には、ラミレスも聴きに来たアテネオ・ホールでのコンサートの後、ラミレスをたずねたときのことが語られている。「聴衆が熱狂して君に拍手を惜しまないのを見たとき、私は立ち上がって”おいおい、私の方にも多少拍手したらどうだ! 私はこの大成功を少し分かち合う権利があるはずだし、もしそうでないなら、あなた方は今この芸術家に出会い、演奏を味わうことができないかもしれないのだ。”と言いたかった。コンサートの翌朝、職人達を、とりわけ無口で最高の職人である、このサントスを(と指差して)祝福した。」セゴヴィアの記述にあるように、このときのギターが実際にはサントスが製作したものかどうかは、歴史的に重要な点を含んではいるが、そのことよりもセゴヴィアがこのギターを約四半世紀に渡って使用したことの方が重要である。
 エンリケ・ガルシア、ドミンゴ・エステソ、モデスト・ボレゲーロ、アントニオ・エミリオ・パスカル・ビウデスは、マヌエル・ラミレスの工房で修行し、トーレスとラミレスによって改良された現代的なギター製作の原理を学んだ。サントスはマヌエル・ラミレスの製作法に多少の改良を行った。彼は、表面板の高音側に斜めの響棒を入れたのである。これは現在もイグナシオ・フレタ、ホセ・ラミレスIII世、ミゲル・ロドリゲスに見ることができる。
 エンリケ・ガルシアはマヌエル・ラミレスの弟子であり、ラミレス家の語り部が言うようなラミレス1世の弟子ではない。マルティン・カステリャノは、エンリケ・ガルシアの最初のギターは師のマヌエル・ラミレスの工房で製作されたと1938年に記述しており、明らかにそれらのギターの1本が1893年のシカゴ博覧会でメダルを得た。プラトはエンリケ・ガルシアの親しい友人であり、はじめてアルゼンチンへ彼のギターを紹介した。ガルシアにおけるトーレスの影響は、幅の広い装飾、トーレスの第2期の設計の採用、トルナボスなど随所に見られる。1914年に製作されたギターのうちの1本はトーレスと同じ装飾が施されている。それは細部までトーレスの作品とされるギターのいくつかと同一であるが、それはガルシアのオリジナルであることがほぼ明らかになっており、後からガルシアのラベルがトーレスのラベルに貼り替えられたと考えられる。エンリケ・ガルシアは素晴らしい職人であり、とりわけアルゼンチンで高く評価された。ガルシアの後継者であるフランシスコ・シンプリシオは非常に有能な職人で、ガルシアの経験を学び、時期によってはガルシアと同じ設計と装飾のギターを製作した。彼はまたトーレスモデルを製作し、たびたびトルナボスを取り入れた。
 イグナシオ・フレタへのトーレスの影響は、1950年以前に製作された初期の作品に明らかである。その後、彼は形状を大型とし、斜めの響棒を導入し、力木の本数を増やしたが、基本的な要素はトーレスから得たものである。1938年製作の作品33番を見ると、そのころフレタがどれほどオリジナルのトーレスに近いギターを製作していたかわかる。彼はトーレスの設計を採用しただけでなく、材料も同じものを使用し、ヘッドのデザインまでトーレスの影響を受けている。口輪の中央のデザインは幾分トーレスの流れを感じさせる。フレタはトーレスのギターを何度も修理する機会があり、トーレスギターが優れていることをよく知っていた。彼は死の直前のインタビューで、トーレスに感謝の気持ちを述べている。今日、その他のスペインの製作家はトーレスの考えをもとに、トーレスの時代にはなかった独自の力木の配置を用いたり、表面板にレッド・シダー(米杉)やオレゴン松やコロンビア松を採用したり、塗装にスプレーを使用してギターを作り続けている。多くの製作家が一時的な修行の場と考えているラミレス3世の工房でさえ、16年の修行の後にマヌエル・ラミレスが用いたのと同じようなモデルの製作に辿り着くのである。低音側の開いた(表面板に橋かけした)響棒は、今日も依然として多くの製作家が取り入れており、はじめて導入したトーレスへの貢物となっている。
 グラナダでは、製作家23人のうち15人は伝統的な製作法に従っており、グラナダにおける最長老のエドアルド・フェレールは、彼の叔父のベニート・フェレールとトーレスによって、改善すべき点はすべて成就されてしまったと信じている。ドミンゴ・エステソの甥であるファウスティーノ・コンデも、トーレスから発展した方法がマヌエル・ラミレスとドミンゴ・エステソを経て改善の必要がなくなったという、同様の思いを述べている。
 フランスにおいては、スペイン派の台頭後は固有の技法が失われかかっていたが、パリのロベール・ブーシェにより再び花開いた。ブーシェはトーレスの方法に深く関わり、独自の方法を見出した。彼はわずかではあるがゴメス・ラミレスの影響も受けている。19世紀の分岐点において初期のフランスの製作家は、スペイン製のギターの製作方法を取り入れていた。というのは、それらはそれほど良い作りではなかったが、それでもよく鳴ったからである。ロベール・フィソールはスペインギターを「信じがたい響き」と言って賞賛している。フリアン・ゴメス・ラミレスは、19世紀末にスペインからフランスに移って工房を開いた最初の重要な製作家だった。彼は1938年にイダ・プレスティの最初のコンサート用ギターと、ロベール・ブーシェのギターを製作するという栄誉を得た。同時に彼はブーシェにギターの製作技法を指導した。フリアン・ゴメス・ラミレスは1879年のマドリード生まれで、フランスでは1922年に工房を開いた。彼はマドリード派の製作家で、ラミレスI世は彼がギター製作の主要な技法を身につけていると評価していた。しかし、1930年に製作されたギターはラミレスI世の作品とはほとんど類似点がなく、8本の扇形の力木が採用されており、むしろマヌエルの作品に近い。彼は疑いなく、マヌエル・ラミレスから伝授された方法を採用していた。ブーシェは「フリアン・ゴメス・ラミレスは、パリに工房を構える前にマドリードでマヌエル・ラミレスのもとで働いていた。」と述べている。1920年に出版されたジャンとコラ・ゴルドンの作品にもゴメス・ラミレスがトーレスの影響を受けたことが次のように触れられている。
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”「いい製作家だ。」とペレスは繰り返した。「マドリードの? はっきり言えば、違う。今は一つの事しかわからない。。。このパリで現在製作している最高の製作家だ。彼の名前はラミレス。そのとおり、もう一人のラミレスの親戚だ。彼は、より美しく、力強く鳴る、新しい技法を見つけた。作品はまるで本物のトーレスのようだ。こっちへ来てくれ。彼が古ピアノから取った材料で製作したギターをいくつか見せよう。素晴らしいだろう!”
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 ゴメス・ラミレスはパリのアンヴェルス地区にあるロディエ通り38番に店を持っていた。それはブーシェが生まれた場所であるロシュコール大通り62番から少し歩いた距離である。ブーシェのギター製作への最初の一歩は1936年、ゴメス・ラミレスの工房で始まった。ブーシェは、絶えずゴメス・ラミレスに話しかけ、後にギター製作家としての基礎となる技術の詳細を吸収していった。彼は次のように回想している。「フリアン・ゴメス・ラミレスについては、1936年に知り合った。彼の工房はモンマルトルの9区ロディエ通り38番にあった。それは原始的で暗いほら穴のようなところで、電気は通っていなかった。通りから数歩の位置だったので、夜は街路の灯油ランプの光が得られた。信じ難い無秩序のなかで、彼は素晴らしいギターを製作していた。彼は1938年に私のために製作してくれて、そのギターを今も所有している。彼は気さくな人柄で、私は何時間もその”ほら穴”の隅でパイプの煙をくゆらしながら作業をを見守った。戦争が終わり、何年も経ってから、私がギターを製作するなんて、その時は考えもしなかった。」 工房に関する別の記述としては、ジャンとコラ・ゴルドンのものがある。「ラミレスは、ギターをほとんど道路で製作していたようなものだ。工房は約10フィート四方で、6フィート幅のドアがついていた。これは真にスペイン風で、現在は確認できないが、10フィート四方が丸ごと下の階のフランス風の建物に突っ込んだ形になっていた。光だけがドアから入っていたが、そのドアは部屋と同じくらい幅広だった。ラミレスの体は、その入口をふさいでしまいそうにがっちりしており、あごひげの濃いスペイン人だった。ボクサーのような体格をして、繊細に木を削っていた。彼の背後には、壁に型、製作途中の部品、製作途中のギター、ラウド、バンドゥーリャ、ほとんど知られていないヨーロッパの珍しい楽器がつるされていた。小さな店の後ろの棚には未完成のバンドゥーリャが紐で固定されたままいくつも置かれていて、接着剤が固化するのを待っていた。
 ラミレスの工房は我々が考えていたようなものではなかった。私は、優れた楽器が製作される場所について、大方の人は、整頓された繊細な場所を思い浮かべると思う。ラミレスがもし椅子か馬車の車輪を作っていたのなら、狭い場所ではあったが、それらしく見えただろう。しかし、この雑然とした部屋で、製作が最も難しい楽器が生まれるということは、何をもってふさわしいと言うべきか混乱させられる。」
 ブーシェがいかにトーレスに傾倒していたかについては、彼が異なる時期に製作した二種類の楽器に見ることができる。ブーシェの最初のギターはトーレスのギターをもとにしていたし、4作目のフラメンコギターは、シープレス製のトーレス・ギターのレプリカをめざしていた。彼は1946年に最初のギターを製作し、数年後に2本のトーレスを修理する機会を得た。その後、このギターを自身の作品のモデルとして使った。そのトーレス・ギターは、現在はパリの音楽博物館にあり、ブーシェによってトルナボスが取り外されている。内部の修理を行うために裏板を取り外したとき、彼はトーレスの響棒の形状や、サウンドホールへの力木の配置など、後に自身のギターに取り入れるトーレスの設計の要素を学んだ。トーレスの影響はまた、1本の細木に細かく切れ込みを入れたライニングの採用(訳注:横板と裏板との接着補強部分)、先細りにしない(つまり先端を削ぎ落とさない)横棒とそれを支えるブロックの使用、縁を尖らした力木の形状などに見られる。1960年代の作品では、力木は5本にまで減っている。それはフラメンコギターのレプリカで使用した本数と同じであり、ブリッジの裏側には太い響棒が配置されている。1952年、ブーシェはギタリストのオーバンが所有するトーレスの修理を依頼され、トルナボスをはずし、弦の張力で変形していた表板を補強するため、力木に変更を加えた。ブーシェは新しい響棒の導入により高く評価されてはいたが、トーレスのアイデアを借りていることを堂々と認めていた。「私が最初のギターを製作したとき、私が最も敬服するトーレスの設計を採用した。3番目か4番目以降のギターには、オーバンのトーレスに刺激され、低音側に橋かけ型の響棒を採用した。ハウザー1世については力木の配置を調べた事はない。」 橋かけ型の響棒は、1912年にマヌエル・ラミレスが、1930年にはハウザーが採用していた。

 1930年代中頃、ドイツのヘルマン・ハウザーがスペイン流のギター製作家として登場したことは、歴史的にきわめて好ましいことだった。その頃、スペインのギター製作は衰退しかけていた。スペインは、1920年代の終わりまでは、最高級のギターが生み出されるのにふさわしい土地だと見なされていた。しかし、それ以降は、サントス・エルナンデスを除いて、スペインは残念なことに世代交代をするための重要な製作家を欠いていた。ホセ・ラミレスとマヌエル・ラミレスおよび彼らの後継者であるエンリケ・ガルシアはすでに1920年代の中頃には他界していた。フランシスコ・シンプリシオはバルセロナで製作していたが、1933年に死亡した。
 セゴヴィアにはサントス・エルナンデスの素晴らしいギターを手に入れるチャンスがあったが、彼のあからさまな傲慢さによって実現しなかった。ある時、マドリードに来たセゴヴィアは、サントス・エルナンデスをホテルに来るよう誘い、スイス人製作家(訳注:ビドデーと思われる)が作ったギターを見せた。しぶしぶホテルにやってきたサントス・エルナンデスは、そのギターがマヌエル・ラミレスの工房で自分が製作していたギターの完全なコピーであることに気づいた。セゴヴィアがスイス人製作家を賞讃しただけでなく、前回サントスに注文したにもかからわず彼のギターに何の興味も示さなかったことに、サントス・エルナンデスは激しく気分を害した。彼は、そのギターを決してセゴヴィアに見せなかった。そのギターには、La Inedita(「未発表」の意)と命名され、その名が示すように、弾かれないままサントス・エルナンデスの未亡人が1970年の終わりごろまで所蔵していた。その後、彼の甥によってメキシコの収集家に100万ペセタで売却された。

  ギターをすぐれた楽器として確立させる上で、いかにセゴヴィアが貢献したかについては、これまでに多くが述べられ、語られてきた。このことについて述べるのはこの本の目的ではないが、セゴヴィアの先人および同時代の人達が作り上げた土台を無視することは、アルカス、タルレガ、リョベート、プホール、そしてそのすべてに最も大きな影響を与えたアントニオ・デ・トーレスに対して不当であるということは言っておかなくてはならない。これら4人のスペイン人ギタリストが、使用したトーレスギターについて語り、彼らの世界中への演奏旅行がセゴヴィアの到着前に道を整えたことは重要な意味をもつ。セゴヴィアのパリにおける最初のコンサートより前に、ミゲル・リョベートはすぐれた演奏力を示した。トナッツィによれば、1913年から1914年のリョベートのドイツ訪問は、この国におけるギターの地位を確立するのに貢献した。これはセゴヴィアが1924年にドイツを訪問し、初めてヘルマン・ハウザー1世に会う10年も前のことである。セゴヴィアは、ヘルマン・ハウザーの死から2年後、ハウザーへの賛辞の中で、ミゲル・リョベートの仲間によるセゴヴィア歓迎会のときに2度目に出会ったことを詳しく説明している。それはホテルで開催され、ハウザーも参加していた。彼はセゴヴィアの1912年製マヌエル・ラミレス/サントス・エルナンデスのギターを調べ、寸法を測った。翌日、セゴヴィアは地方のギタリスト達が催したコンサートでハウザーのギターを使用した。「このギターはハウザー氏が製作したものです。私は入念に調べましたが、すぐにこの素晴らしい製作家の力を予見しました。もし彼の成功が、ストラディバリウスとグァルネリウスによって決められたヴァイオリンと同様に、トーレスとラミレスが決めたスペイン流の製作法を取り入れただけのものであったとしても。」それらのギターはスペイン流のギターではなかったように思われるが、セゴヴィアは楽器の詳細については述べていない。それらがどのようなタイプのギターだったか、結論に辿り着くのは困難である。というのは、ハウザーはいくつも異なるタイプのギターを製作していて、指板が表面板と同じ高さのバロック風ギターから2本のネックをもつギターまで、またウィーン風ギターや中央ヨーロッパ風のギターも製作した。セゴヴィアのラミレスギターから注意深く採取された寸法は、セゴヴィアが「我々の時代の最高のギター」と呼んだハウザーギターへの前進の第一段階に貢献したことは疑いない。そして、ついに1937年には完全にセゴヴィアを満足させたのである。

  1924年に先立って、ハウザーはリョベートが所有していたトーレス(EF09)に出会っていた。彼はそこから寸法を取ったに違いない。ジュリアン・ブリームは、1970年にハウザーの工房を訪ねた時、1922年の日付がついた「リョベートのトーレス」の型を見つけたと語っている。ハウザーは、その後少なくとも2本のギターにこの形を使用している。ブークによれば、セゴヴィアがミュンヘンを訪れるまでに、リョベートのトーレスは音の美しさだけでなく、サウンドホールの下に金属製の筒、すなわちトルナボスを備えていることで良く知られていた。ブークはリョベートのトーレスの製作技術面に精通しており、のちの記述の中でトルナボスとその技術的な詳細について述べている。”この金属の筒は、古いリュートに見られるサウンドホールの装飾に似ている。サウンドホールの内側に置かれ、裏板との間は3箇所で支えられており、特定の目的を持っていた。それは表面板を支え、弦の張力による変形を防いだが、同時にサウンドホールの下部に置かれる1本の響棒を省略できた。”ブークはトーレスの作品についてよく知っていた。というのも、彼は1922年には「ラ・レオナ」に出会い、それがトルナボスを備えていることに気づいていた。また、彼は1924年にセゴヴィアの前でハウザーを弾いたギタリストの一人だった。  ハウザーのギターは、スペイン派の影響により、2種類に分けられる。すなわち、ラミレスのパターンによるものと、ハウザーがわずかな変更を加えつつトーレスのパターンにもどったものとである。ラミレスにもとづくギターでは、ヘッドのデザインや、力木と寸法の拡大に影響が現れている。ハウザーは、1937年のセゴヴィアのギターを製作した後でさえ、多くの組合せと形状を試していた。それらのギターのうちのいくつかについては、彼はマヌエル・ラミレスの丸みのある調和のとれた形と、トーレスのヘッド、弦長、装飾とを折衷した。1930年まで、ハウザーはトルナボス付きのギターに影響を受けたが、トルナボスを取り付けるよりも響棒に開口部をつけることによってギターを改良することを試みていた。しかし、彼は1933年までトルナボスを使うことに固執した。1936年、彼のギターは、形状に劇的な変化を見せ、丸みのあるマヌエル・ラミレスの型から、ずんぐりして幅が広い、多少大型となった。しかし、表面板は依然としてラミレスと同様、2本の短い力木を底部に対角に配置していた。外見上はヘッドのデザインだけでなく表面板のモザイクや装飾までトーレスによく似ている。
 1940年まで、ハウザーのギターはトーレスの作品と密接な関係を見せていた。力木の配置は、トーレスと同様に、指板の末端を頂点として対称形となっている。力木の形状は、3角形となっており、底部の短い力木は長く、トーレスの作品と非常に近い角度で配置されている。外見もトーレスのデザインに似ており、モザイクはリョベートのトーレスFE09に似ているし、二重の縁装飾もトーレスを思わせる。ヘッドのほぞ穴の底(ナット側)が平らであることもトーレスの特徴であるが、更に重要なこととして、ハウザーの初期のギターには見られなかった膨らみをもつ表面板がある。これらの特徴は、ハウザーが所有しているトーレスFE13に見られるものであり、これがラミレスからトーレスシステムへの変化を説明していると言えなくもない。このトーレスは1860年に製作され、プホールのトーレスFE16と同じ設計である。なお、ハウザーはこのFE16もモデルとして使っている。セゴヴィアのマヌエル・ラミレスがハウザーの進歩に重要な役割を果たしたことは疑いないが、最終的にハウザーにセゴヴィアのためのギターの基礎を与えたのはトーレスのオーソドックスなシステムだった。この結論は、セゴヴィアのギターに精通する機会を持った2人の人物により裏付けられている。ジュリアン・ブリームは、セゴヴィアのギターを弾く機会があり、その形状と寸法が疑いなく彼の1936年製ハウザーと非常に似ているのを感じた。2つ目の確証は、修理の際にギターをよく調べたホセ・ラミレスIII世から得られた。ハウザーII世でさえ、ハウザー・ギターの基礎がトーレスから生まれたことを認めている。
 他の製作家と同じように、ハウザーも時期によって変遷を経ており、その中でいくつかの異なる形状と寸法を使用している。初期の1930-35年においては、セゴヴィアのラミレスギターの影響は受けていないが、おそらくリョベートのトーレスの影響を受けている。また、ハウザーの大型の形状は1936年以降となっており、トーレスのFE15とFE24の寸法に酷似している。

 戦後、アンドレス・セゴヴィアの英国への演奏旅行は、新たなスペインギター熱を引き起こした。戦後の数年間、真のスペイン音楽を演奏するのに適したギターを得ることができなかったが、このことは少数の熱狂的な人々にギター製作の技法を探求させる原動力となり、その結果、1950年代の半ばにはすでに数人の職人がギターを製作していた。そのほとんどはトーレスを手本にしていた。1950年代半ばの英国におけるスペイン流の製作家のひとりにヘクター・クワインがいる。彼は機械のエンジニアをしたり、王立音楽アカデミーのギター教授だったこともあるが、ブリームが1956年に最初のレコード録音を行ったギターを製作した。スペイン流のギター製作の最終的な弾みがついたのは英国人、ジュリアン・ブリームによってであった。1960年代半ばに彼はニューヨークでデビッド・ルビオに出会うが、これがルビオとの最良の関係の前奏曲となった。ルビオはそのとき彼に何本かの素晴らしいギターを製作した。彼はフランシスコ・シンプリシオを手本としていた。

 私は1961年、図書館にあったシャープの著書「自分のギターを作ろう」を見て最初のギターを製作した。そのギターは形に調和を欠いていたが、それがより良い形を求め続けることにつながり、トーレスの寸法で2本目のギターを完成した。私はそれをメープルで製作し、良い楽器となった。ロンドンのギター教師であったフレッド・ジェームスとちょうどその頃出会い、彼は私の新しい出発を勇気づけてくれた。彼はそのメープルのギターを買ってくれたが、自動車の中に置いていて盗難に会ってしまった。私は1960年代の終わりまで同じ方法でいくつかのギターを製作した。そのころ私は独自の設計を導入したが、多少はトーレスの方法が残っていた。

 1970年、ジュリアン・ブリームは、チェンバロ製作家のマイケル・ジョンソンと一緒に使う工房を提供してもよいと申し出てくれた。そして、1936年製のハウザーを持ってきて、私に修理を依頼した。そのギターを念入りに調べたことをもとにして、私はスペイン流のプロの製作家としてキャリアを開始した。でも、その頃は、それがスペイン流であることは知らなかった。私は、そのパターンを3年間使用し、その後、1949年製のハウザーの寸法に置き換えた。この1949年の型は、後にリョベートのトーレスと同じ寸法であることがわかった。この型で製作した最初のギターは、ブリームが所有している。
 1972年、私はセルジオ・アブレウが1930年製ハウザーを使ったコンサートを聴いた。彼は後にその詳細な図面と寸法を私に送ってくれた。そのギターは、1936年製ハウザーと同じ内部構造をもっていたが、3本の響棒は開放型となっており、低音側を開放したトーレスを変形したものだった。私が1930年製ハウザーの寸法を用いて最初に製作したギターは、1973年にブリームの所有となり、12年間使用された。

 私が初めてトーレスのギターに接したのは1970年代の半ばだった。その頃まだ1930年製のハウザーのパターンでいくつか製作していたが、トーレスの力木配置と形状による製作を始めていた。数年間、私はトーレスの製作方法を理解する努力を続けた。そして、表面板をドーム状にすることや、各種の装飾を取り入れた。私が演奏を聴くことを特に許されていたトーレスギターは、何をもって真のギターと考えるかについて、私に深い印象を残した。この印象は、ハウザーによって更に強められた。ハウザーはスペイン的な響きを完全に取り入れはしなかったが、にもかかわらず素晴らしい明晰さと変化に富んだ響きをもつギターを生み出した。二人の製作家は共に、膨らみをもった表面板と、同じようなアイデアによる、極めて軽いギターを製作した。私は、最大限の範囲で響きを作り出せないギターは完全なギターではなく、重く作られたギターはコンサートギターにふさわしい鋭敏さを生み出せない、と信じている。トーレスやハウザーおよび、サンギーノ、パヘス一家、マヌエル・ラミレス、ビセンテ・アリアス、サントス・エルナンデスのような過去の製作家の作品を測定するにつけ、とりわけトーレスの作品について、私はスペイン技法の詳細を研究をせざるを得ないと感じた。
 私の調査は、トーレスおよびハウザーと同じ道を今もたどっており、25年の製作活動後、私の仕事はこの二人の巨匠の周辺に収束している。これは今の製作家の多く、とりわけ最近のマーチン・フリーソン、フランク・ハーゼルバッヒャー、ブライアン・コーエン、ケヴィン・アラム、ジョージ・ラブについても同じことが言える。


 アルゼンチンにおいては、20世紀初頭にギターが開花しはじめていた。ヒメネス・マンホン、リョベート、プホール、セゴヴィア等が訪れたことは、ギターにとって実り多い素地を作り出し、ホセ・ラミレスII世、マラガ出身の製作家ロルカ・ピーノの弟子であるファンおよびラファエル・ガラン、マヌエル・ラミレスの弟子であるアントニオ・エミリオ・パスカル・ビウデスを引きつけた。プラトによれば、アントニオ・エミリオ・パスカル・ビウデスはトーレスの様式により製作していた。
 米国においては、トーレスの影響はアルバート・オーガスチンによって受け入れられた。彼はトーレスの「秘密」を理解するために、彼の所有するギターを分解したり、最良の時期のハウザーをX線で調査したりした。彼のハウザーに対する後年の興味は、彼の作品に現れている。この影響は後年、彼の弟子であるフランク・ハーゼルバッヒャーに引き継がれ、ハウザーのパターンが使用されている。マヌエル・ベラスケスもまた、多くをハウザーのパターンで製作している。


 第7章 製作技法
 トーレスが最上のギターに用いた技法は、共鳴の基本原理と、それをギター製作に応用する方法に気づいていたことを示唆している。軽い構造を備えることを重視したのは、振動の法則の直感的な理解を示している。彼のギターは同時代のそれに比べて大きいが、これは重量の増加には結びついていない。彼が望むギターを製作するために、彼は重量を軽くし、理想的な弦の張力が得られる構造を見出そうとした。そして、固有振動が最終的な響きと弦の応答に重要な役割を果たしていると感じていた。初期の段階から見られる独自のドーム状成形は、同時代の他のギターには見られなかった新しい音響上あるいは構造上のアイデアを製作に生かそうとした明らかな証拠である。弦の張りと構造との間の関係は、軽い構造を設計し始めたころには、彼の理論の中では表に出ない部分となっていたに違いない。彼は、重い楽器よりも軽い楽器の方が振動させやすく、振動は響きを作り出すエネルギーであると理解していた。軽いギターの製作は、それ自体が終点なのではなく、彼が描いていた響きを得るための手段だったのである。
 トーレスは、洞察力に優れた他の製作家と同様、ギターはひとつの振動現象であって、最もよく振動する究極の点が存在すると感じていた。その点はギターの音域全体にわたってよく共鳴し、楽器全体の振動モードだけでなく、与えられた音程での指板上の弦の振動と、最終的には適切な張力を決定するのである。彼は弦の張力の違いや、弾き易さ、全体のバランス、究極的にはギターの音質というものを理解するために、経験的なやり方で自分流の方法を応用音響学の分野へと押し進めていった。彼は、今日ではよく知られていることだが、ギターの音質はある特定の部分に依存するのではなく、関連するすべての要素の集積がなくてはならないということを知っていた。つまり、ギターの大きさと形状、最も適切な音の織り合わせを見出だすための弦長とボディサイズの関係、厚みの分布と評価(とりわけ表面板の)、そして最終的にはそれらを統合するための組み立て技術である。彼は弦の張力から生ずる複雑な問題、「張り(feel)」の違い(ゆがんだ後の弦のもどりとして示されるような)に気づいていた。タルレガは3本のトーレスを持っていたが、晩年は1864年製または1883年製よりも1888年製を好んでいた。それはタルレガの未亡人が1888年製の売却時に書き送った内容からすると「理想的な張りの強さ」だったからである。

 トーレスは、経験をとおして、すぐれたギターは共振したりしなかったりする点をもっており、それが弦のわずかなたわみに敏感に応答し、理想的な柔軟性を備えた弦の張力を生み出すこと、そしてこれが実現されると弦の張力とギターの構造との間に極めて望ましい「一体化」(ユニゾン)が生ずることを知っていた。サッコーニによる次の記述は妥当と言えるだろう。「これらの共鳴箱の最大の利点は、弦のたわみに対する応答の早さと、音が放出される速度から成っている。この応答の早さはまた、弓によって弦に強い圧力をかける必要を無くす。弓は音の純粋さを損ない、甲高く、濁った音を与える。」この共鳴点は、ヘルマン・ハウザーI世にとって核心となる要素であり、スペイン流の製作方法に基づく彼のギターに見ることができる。弦の柔軟性は、関係するすべての要素の完全な連携の結果生まれる。それは膨らませた表面板の振動モードにより張力を和らげ、同様に、非常にわずかであっても、自動車のショックアブソーバのように弦の鋭い衝撃を緩和する。
 経験則によれば、軽く作られたギターと弦の寿命との関係は、軽い方が重いギターより弦が長持ちする。このことは理解し難いことではない。というのは、重い胴は軽い場合より強い力を与えないと振動しないからである。これはまた、ギターそのものについても言える。正しいピッチを得るために課せられる歪みが大きいほど、緊張は構造全体へ広がる。トーレスは、彼の理論を描くための科学的なデータを何も持っていなかったが、彼のギターを創り出すときには完全にこの現象に気づいていた。

 第11章 タルレガのギター

 タルレガは最初のトーレスギターをセヴィリアで1869年に手に入れた。それはエミリオ・プホールによればトーレス自身が弾くために製作したものだった。タルレガは後に、1883年と1888年製の2本のギターを手に入れた。最初のトーレスは裏板と横板が火炎模様のメープル材で作られていた。トーレスが使用したメープルは良質であったが、模様は多少変わっており、とくに裏板に用いられるようなものではなかった。表面板は年輪が均一ではなく、1インチあたり18から34までの幅をもっていたが、最高級のスプルース材であった。このデリケートな表面板は非常に薄く、胴の下方の外周付近では1ミリに満たない。このギターはトーレスの標準仕様である7本の扇状力木と底部の2本の対角力木、それにトルナボスを備えていた。サウンドホールの両側には、2本の響棒をもっていたが、低い方は穴が無く、エンリケ・ガルシアが1897年に表面板のへこみを修理した際に取り付けたことがほぼ確実となっている。当時、トーレスは穴のある響棒とトルナボスを最良のギターに試していた。

 プホールによれば、タルレガは1889年までこのギターを使用した。絶え間ない使用により、もう1本のトーレスに持ち替えざるを得なかったのである。タルレガは非常に美しいこの楽器をエンリケ・ガルシアに修理に出すために別れなければならないことに落胆した。しかし、1度目の修理はうまくいかなかった。何年もたってから、ガルシアはそのギターを演奏できる状態にまで回復させ、タルレガの希望はかなえられた。
 エンリケ・ガルシアが修理の際に貼ったラベルは、「背面板を取り外し、内部を修理した」ことを示している。これは疑いなく表面板の補強と導入された1本の響棒のことをさしている。ラベルは修理が1897年に行われたことを示しており、おそらく指板とフレットの交換が同時に行われた。常に弦の張力がかかった25年間の使用と爪のキズで、表面板はへこんでいた。表面板についた深い溝はタルレガの右手の親指の爪が、指板の端から引きずって出来たものである。タルレガが1888年製を好んだ証拠はあるが、1864年製が何年もの間お気に入りであったことは疑いない。1917年、この楽器がフリアン・カルロス・アニード(マリア・ルイサ・アニードの父)に送られる直前、トマス・プラトはミゲル・リョベートにこれを見せ、リョベートが所有している1859製と比較した。トマス・プラトによれば、リョベートはどちらが優れていると決められなかった。しかし、仲介したプラトは疑いなくアニードのトーレスの方が優れていると思った。

 「数日前、リョベート氏があなたのギターと彼のギターを比較しました。長い時間かけて弾き比べましたが、彼は自分のギターに非常に強い愛着を持っていて、どちらも優れていると言いました。でも私はあなたのトーレスの方が優れていると思います。」

 プホールは彼の「タルレガの生涯」の中で、タルレガのクラスでそのギターが弾かれるのを聴いたことについて詳しく述べている。

「(裏板は)メープルで出来ており、表面板はスプルース、ネックとヘッドはシダー、指板は黒檀だった。サイズは通常のものより少し小さかった。サウンドホールと縁には暗緑色のモザイクと二重の矢がすり模様がうめ込まれていた。ヘッド、背面、側面には精巧な長方形の連続模様が施されていた。おそらくトルナボスのためと思われるが、響きの自然さに加え、黄金で出来ているかのような明晰で温かみのある音色をもっていた。低音と高音のバランスは、奏者が求める割合に応じた正確な音量で鳴り、音の伸びは指板のどの位置でも同様に豊かだった。それは完全な和音を可能とし、低音の三本を鳴らすだけで他の弦の和音の響きを得られるほどだった。」

 1909年、タルレガの死により、遺族が3本のトーレスの所有者となった。感傷的な思いはあったが、1917年、おそらく経済的な理由から、彼らはそのうちの1本の売却を決心した。売却されたのは1864年製の1本(FE17)で、最も傷んでおり、タルレガの妻によれば、タルレガが最も気に入っていたのはこれではなく、1888年製(SE114)であった。ドミンゴ・プラトによれば、彼が直接スペインからこのギターを得たのだが、実際には彼の父トマス・プラトが、タルレガの兄弟であるビセンテ・タルレガと売買のすべてを行った。1917年3月26日、ビセンテ・タルレガはトマス・プラトに価格に関する手紙を出している。

「拝啓
あなたのご親切な手紙を受け取りました。兄パコ(フランシスコ)が生涯所有していた驚異的なギターをあなたが求めていらっしゃることをとても嬉しく思います。私どもは、このような非常に貴重なギターが、兄が知る限りもっともふさわしいギターとしてあなたのご子息の手に渡るとしたら、たいへん喜ばしく思います。私どもはこのギターを4000ペセタでお譲りしたいと思います。」

 このギターは1917年8月6日にブエノス・アイレスまで32ペセタの運賃で船積みされ、350ペセタの保険料を払ってバルセロナを出航した。そして、10才のマリア・ルイサ・アニドのもとへ届けられ、ビセンテ・タルレガが信じていたのに反してドミンゴ・プラトが弾くことは一度もなかった。ドミンゴ・プラトによれば、この売買は「国の不名誉」だった。1979年1月、私がエミリオ・プホールにこの件をたずねたとき、彼はこの売買について語ってくれた。彼は、それまでに出会った最高のギターを購入しようと思って、どれほどタルレガの家族に接触したか、非常に残念がった。「トマス・プラトは素早く行動し、割り込んできて、私が払えるより多くの金を提示し、ギターはなくなり、私は取り残された。」
 
 プホールは何年も後に、ブエノス・アイレスを訪れた際、このギターに出会っている。それは放ったらかしで、ケースもなく、保護もされず、長イスの上に放置されていた。それが放ったらかしにされていた結果は簡単に見ることができる。ネックに近い横板に裂け目があり、モザイクのかなりの部分が剥げ落ちている。取れてしまった部分はたぶんどこかへ失われてしまったのだろう。糸巻きのギアも恐るべき安ものに交換されており、美しい巨匠の作品にはまったく不釣合いだった。

 横板の片側には、タルレガの喫煙を好んだ明らかな証拠が見られる。いくつかは焦げており、タバコの燃え殻が弾いているときに落ちたのだろう。SE49にはこうした痕があり、曲は何であれタルレガの演奏への集中と、タバコの粗悪な巻紙が原因であることは疑い得ない。ニスの保護膜だけでなく、木部まで焦げている。タバコはふつう均一には燃え進まず、急に燃える部分もあれば、そうでない部分もある。このため、火のついたタバコの一部が上側の横板に落下したと考えられる。プホールの著書に載っている写真には、タルレガがあるパッセージをコンサートで演奏しており、口にくわえたタバコが半分ほどヒゲにかくれて、不均一に燃えている様子が認められる。彼は、とりつかれたような愛煙家で、それがプライベートなリサイタルであっても、大きなコンサートであっても、タバコなしにはいられなかった。音楽雑誌"Ilustracion Espanola y Americana"の批評には「タルレガは左手だけで演奏することができただけでなく、演奏中に喫煙さえした。」と述べられている。

 このギターは個人のコレクションとして110万ペセタ(約5000ポンド)でバルセロナへと買い戻された。この売買は、1917年からの所有者であったマリア・ルイサ・アニードの仲介によって行われた。ギターの哀れな状態を目の当たりにするのは悲しいことであったが、木が弱っているため、いかなる修理も危険が伴うと思われた。しかし、少なくとも製作された国、演奏され称賛された場所へもどることができた。

 トーレスがタルレガのために製作した1883年製のギター(SE49)は1864年製(FE17)との持ち替えを考えて作られたと思われる。FE17は当時20年を経てかなり傷んでおり、両者の類似性から見てトーレスは前作と同じレベルのギターを作ろうとしたことがわかる。1864年製と同様に、裏板と横板はメープルで、木目と材質は前作に類似している。トーレスは同じ力木配置を用いていたが、トルナボスは入れていない。縁飾りとサウンドホールの装飾は、一部を除いて同じモチーフを用いており、裏板の4枚はぎはそのまま残している。このギターは3本のうちの最後として1944年に売却された。タルレガの息子フランシスコ・タルレガ・リソはアントニオ・セカネルに6000ペセタで売却し、現在はアルメリアのポピュラー歌手マノロ・エスコバルの兄弟であるホアン・ガルシア・エスコバルのコレクションとなっている。

 タルレガの妻と1888年製トーレス(SE114)の買い手との手紙によれば、少なくとも晩年は「優れた響きと理想的な張りの強さ」からタルレガは1888年製を最も気に入っていたようだ。トルナボスはなく、響棒にはトーレスがときどき採用していた橋状の空間がない。サウンドホールのモザイクはあまり手が込んでおらず、前のギターに採用した細かなチェックのパターンではなく、同じころ製作されたSE113に取り入れられた鎖状の模様となっている。緑の線が入ったロゼットは初期の作品を思わせる。単純なパターンはトーレスの指が弱ってきたことを示しているかもしれない。手がふるえて、複雑なモザイクを作製することは困難になっていた。3枚はぎの裏板と横板はローズウッドでできており、何も装飾がない。

 タルレガのために製作された最後のギターは、美術品に対して与えられるようなあらゆる取り決めをして、しぶしぶ1920年にキューバのギタリストに売却された。関係者間の処理はとても厳密に行われ、製作者と製作された場所を記載した文書にあるタルレガの妻のサインを証明するために弁護士が呼ばれた。マリア・リソが買い手に送った手紙は売買に伴う他の法的文書と一緒に保管され、エリアス・バレイロの所有となっているが、現在に至るまで公開されていない。

親愛なるマリア・ガルシア・デ・ゴンサレス様        カステジョン 1920年3月30日

 3月2日付の手紙をいただきました。その中であなたは、亡くなった夫が所有していたトーレスギターの1本を望まれています。私はその回答として、2本のうち1本は売却し、残ったローズウッド製のものを所有していることをお知らせ致します。このギターは夫が優れた音質と理想的な弦の張力からもっとも使用していたもので、真の遺品と言えるものです。このため、もっとも求められてきましたが、私は決して売却しようと思いませんでした。しかし、あなたには最大の喜びをもってお譲りしたいと思います。というのは、我々の古くからの尊敬すべき友人であるロッチ様の高弟の手に渡るからです。
 さて、もうひとつ申し上げなくてはならないことがあります。それは5000ペセタ以下では売却を望まないということです。もちろん、あなたが要求し、かつ私が認めたすべての条件を受け入れることは言うまでもありません。速やかなご連絡をお待ちしております。ロッチ様によろしくお伝えください。

                               タルレガ未亡人 マリア・リソ

 この返事が届くまでにそれほど時間はかからなかった。6月15日には契約書が作成され、バレンシアの書士であるドミンゴ・ガロプレ・ガムボンにより公的に認められた。文書にはギターそのものだけでなく、製作家、所有者について詳細に記述され、本物であることの証明のため、タルレガ未亡人による手紙が添えられた。黒枠の封筒は、タルレガの死から11年を経てもなお、家族が悲しんでいることを示している。契約書はおそらく書士による手書きで、次のようなタルレガ未亡人のサインが見られる。

「私マリア・リソ・リベジェスは、フランシスコ・タルレガの未亡人であり、ホセ・デ・ヘスス・ゴンサレス氏の娘でキューバ在住のマルガリータ・ゴンサレス・ガルシアのために、バレンシアのバラゲール・ダディア氏を通じ、1888年にトーレスが製作したローズウッド製のギターを売却した。第2期に製作されたもので、ラベルによれば製作番号は114である。私は、これが私の夫であり不滅のギタリストであるフランシスコ・タルレガが所有していたことを宣言する。この対価は5000ペセタで、私はゴンサレス氏の代理人であるバラゲール氏から受領した。ここに受領の署名を行う。カステジョン・デ・ラ・パルマ 1920年6月15日」

 どのくらいマルガリータ・ゴンサレスが弾いたかはわかっていない。しかし1940年以降、現在の所有者である米国ニューオリンズのエリアス・バレイロが所有するまでは、死蔵されていた。 

第12章 イミテーション(贋作)

 偉大な製作家の作品は常にイミテーションの作者を惹きつけてきた。トーレスの作品が、結局難しい鑑定を余儀なくさせるとしても、それは避けられないことだった。1869年の引退は、もはやそれ以降の新作が現れないことを意味しており、とくに現存するコンサート用のギターは、鑑定眼のあるギタリストにひっぱりだこだった。この種のギターの不足は、トーレス第2期の制作によって、ある程度解消されるはずだった。しかし、それでも彼の名声は時とともに高まり、死後、ギタリストと楽器商によって高く評価された。美しく音楽的な楽器は、深い感情を呼び起こすことが可能で、手放すに忍びない持ち主もいた。彼らは、経済的に非常に逼迫したときになって初めて手放し、相当の金額を手にした。ビュークによると、ある裕福な家庭が困難な状況となり、娘の愛するトーレス、「レオーナ」を売却した。その別れを少女はひどく悲しみ、新たな所有者に手渡す日、彼女は喪服を着て目に涙を浮かべ、最愛のギターに別れを告げたという。リョべートが彼のトーレスの1本を手放すときの、またタルレガの家族が手放すときの悲嘆は、この本の中に何度も述べられている。供給はまったく需要に追いつかず、いつもそのような状況を食いものにする輩のターゲットとなっていった。

 この状況で有利な立場の業者に、マヌエル・ソト・イ・ソラレスが居た。彼はセヴィリア時代にトーレスの隣人で、1868年にマヌエル・グティエレスが40年間のギター製作から引退した際、あとを受けてセラヘリーア通り36番にギターショップを開いた。ラミレス家からラミレスIII世に伝えられた説によれば、トーレスは自らの響きの基準を満たさない作品をソト・イ・ソラレスに回していたという。トーレスが、基準を満たさずラベルにサインしたくないギターを廃棄したということはありそうに思えない。というのは、19世紀の他のギター製作家と同様に、彼も生計を立てるための安価なギターを作っていたことがわかっているからである。もしトーレスが、最高級品を1番目のラインで、安価なギターを2番目のラインで同時に少しずつ製作していたとすれば、まとめて最終的にソト・イ・ソラレスに回すよりも売却しやすかったはずである。これについては、言い伝えと一致する説明が存在する。1865年、トーレスはセラヘリーア通り32番の店を捨て、理由はわかっていないが、25番に店を開いている。彼はそこで内縁の妻と住むようになった。シャワールームがなく、ソト・イ・ソラレスのように訪問客を受け容れるスペースもなかった。1867年以降の現存するギターは、すべてセラヘリーア通り32番のラベルとなっており、実際の住居で、多分製作もしていた25番ではない。トーレスはこの時期、どのように製作しているかを公に知られたくなかったため、道の向かい側のソト・イ・ソラレスの店で売っていた、ということもあり得る。少なくともソト・イ・ソラレスに関連したトーレスの偽物、有名な「レオーナ」の複製が存在するということは、おそらくトーレスがセヴィリアを去ったあと、ソト・イ・ソラレスがトーレスの様式で幾つかのギターを製作したことを示している。

 ソト・イ・ソラレスは、トーレスの名前に便乗したメーカーというだけでなく、何度か本物のトーレスとして鑑定されるギターを製作する多くの職人をかかえていた。とりわけバルセロナで見られる贋作の多くは、すぐれた技術をもつ者によって製作され、オリジナルと同じ寸法であるだけでなく、材質も正しく選択されており、多くの場合、個性的な素晴らしい音が所有者に好まれている。

 その他の贋作は、当時の主要なギター工房で彼らのラベルをつけて製作されたが、トーレスギターとの同一性は、1枚のラベル交換という操作によって、本物のトーレスギターへと変身させた。これは数本のエンリケ・ガルシアとフランシスコ・シンプリシオ、それにトーレスの作品と何一つ共通性をもたないギターについても起こった。製作家がトーレスの作品であると思わせようとして製作する特別な目的がある場合もあった。

 マヌエル・ラミレスはその例のひとりであり、その逸話はラミレスIII世によって明瞭に描かれている。ある時期、彼はトーレスの名声が誇張されすぎていて、完全には受け入れがたいと感じていた。その名声の一部は、本来もっている価値を正しく評価することができないギタリスト達にもとづいていると彼は信じていた。この状態は、明らかにマヌエル・ラミレスの仕事の障害になっていた。彼の作品は、トーレスほどには評価されなかったのである。ラミレス自身は、自分の作品の方が優れているはずだと思っていた。マヌエル・ラミレスは優秀なギター製作家であると同時に才気に富むビジネスマンだったので、トーレスのギターに対するむやみな称賛と評価がいかに誤っているか証明しようとした。彼は、トーレスギターに熱狂するギタリストの多くはそれまでトーレスを弾いたことがないまま判断していると考え、どれほど彼らが偏った評価をしているか、どれほど彼が高名なトーレスに匹敵し、越えるほどのギターを製作しているか示そうと決意した。これを明らかにするために、彼はトーレスの様式で数本のギターを製作し、友人のギタリスト達にトーレス自身の作として見せた。彼のラベルの上にはトーレスのラベルを貼り付けてあった。疑いをもたなかった奏者達はそれらの無類の出来映えを激賞した。しかし、それはラミレスの話を聞き、トーレスの偽ラベルをはがすまでのことだった。その楽器はまったくトーレスの作ではなく、マヌエル・ラミレスが製作したものだった。この話によれば、この策略の結果、その日以来、マヌエル・ラミレスはギター製作技術においてトーレスより優れていると見なされることになった。この策略は、ラミレスがトーレスの様式で数本のギターを製作したばかりでなく、一時的にギタリスト達をあざむくためにトーレスのラベルを作った点で重要な意味をもっている。ホセ・ラミレスIII世は、この策略のためにマヌエル・ラミレスが製作したギターは、トーレスの型ではなく、自身の型を使って製作されたと断言している。しかし、ラミレスの最高級品はトーレスモデルであり、ギタリストに彼の作品をトーレス作として受け入れさせる必要があったことを考えると、私はトーレスのギターと同じ外見をもっていたはずだと信じている。現在、これらのギターがどこにあるかは知られていないが、マヌエル・ラミレスによって製作されたギターのいくつかは、トーレスのオリジナルとして売却されたという記録が残っている。このことはプラトによる次の説明によって明らかにされている。

「ラミレスは特別なギターを製作し、それはトーレス作として売却された。しかし、彼はこの行為を悪いこととは思っておらず、単にトーレスのラベルをもっているという理由で「木の箱」を高く評価する人々に彼の本当の価値を示すための、製作家として自負から生じた当然のプライドによるものと考えていた。もし不正な売買があったとしたら、悪いのは売却したマヌエル・ラミレスではなく、品性をもった見識ある人々に対して”賢明にも”トーレスへの熱愛をひけらかしたギタリストである。」

 コピーモデルが「トーレスの名作」となったすべての原因は、巧妙なラベルと、本当に優れたギターとただの木の箱を見分けられない人々がオリジナルのトーレス作と信じたことにある。このような売買にはいくつもの実例があり、今日オリジナルなトーレスとされている多くのギターは、実際には誰か別の人の作品である。 トーレスとエンリケ・ガルシアのいくつかのギターには大きな類似性が見られる。プラトは1910年、パリに工房をもつギタリストで製作家のアグスティン・アンドレスに、トーレスギターを必要なだけ供給できるともちかけられたが、もし用意できないときは、「多くのギタリスト達がしてきたように」エンリケ・ガルシアを代わりに提供するとされている。

 贋作の製作は、1860年代の作品に集中している。贋ラベルのうち、第二期のものがひとつだけあるが、残りはすべてトーレスがもっとも精力的だった第1期に属する。それらの時期に製作された多くのギターは、バルセロナ在住の著名なギタリストのもとにある。そこは二つの大戦の間の時期にほとんどの贋作が作られた場所である。バルセロナはスペインギターにとって重要な音楽の中心地だった。そして多くのトーレスギターを手に取って見ることができ、今でもバルセロナでは複製品が見つかる。複製品は、エンリケ・ガルシアやフランシスコ・シンプリシオのような腕のよい職人によって、自身の作品として製作されたが、オリジナルのラベルが失われたとき、その身元は明確でなくなってしまった。それらはトーレスの設計と様式を継承した、すぐれたギターだったはずである。トルナボスをもち、同様の材料を使用し、装飾さえ同じものだった。形状はほとんど同じだったが、トーレスと完全に同じではなかった。材料は高品質だったが、全体の特徴はトーレスに一致してはいなかった。いくつかの例ではロゼットは同じデザインだが、トーレスの仕事とは大きな差が見られる。1858年製を複製しようとしてうまくいかなかった職人によるギターには、明らかに質的な差がある。この種のラベルをもつギターは少なくともバルセロナ近辺に3本存在する。

 他の種の贋作は名工によって製作され、流通させることを目的としたのではなく、トーレスの作品をを追求し、できれば乗り越えたいという願望によるもので、技能的にも音の面でもオリジナルなものである。もっとも卓越した1858年製トーレス(EF08)の複製は、謙虚で優れた家具職人だったバルセロナのE.コルによるものである。3年におよぶ市民戦争の間、コルは内緒で目立たないようにEF08のコピーを作成していた。コルはイグナシオ・フレタがバルセロナに店を持ったときにギター製作の方法を伝授し、設立から数ヶ月間フレタと共同経営していたと言わていれる。

 トーレスの名品を複製することは今日でも人気がある。ラ・レオナがルイサ・ソルソーナからドイツのエルハルト・ハンネンに譲渡されたとき、ラ・レオナは修理のためにマルセリーノ・ロペス・ニエトに渡された。つまりマルセリーノ・ロペス自身のコレクションとして複製を製作する機会があったことになる。彼のコレクションにはエルナンデス・イ・アグアドやその他の複製が含まれている。

 その他の贋作は、無名の職人によって製作され、バルセロナの家具職人だったフェノイの作品のように、現在も流通している。フェノイはフランシスコ・シンプリシオの息子であるミゲル・シンプリシオのもとでギター製作を学んだ。彼は自身をミゲル・シンプリシオの唯一の弟子と言っており、トーレスの作品のコピーを製作したことを覚えている。彼は人を欺くつもりはなく、彼の作品がトーレスと同じくらい優れているはずだと自分自身や他の人に証明しようとしたのだった。彼はとくに、グラシアーノ・タラーゴの見解にもとづく作品のひとつについてよく覚えている。タラーゴによれば、トーレスのギターとその響きには、けして匹敵することができないのだった。この見解はフェノイを刺激し、彼はタラーゴが誤っていることを証明しようとした。彼はトーレスの作品と同じ形状やトルナボス、同じ装飾をもつギターを製作した。あるラベルはフェノイのラベルと共に貼られていたが、彼自身のものと共に貼られたラベルが何を意味するか示してはいない。自身のラベルには、彼が修理を施したとある(この例はスイスで保管されているギターに見られる)。このギターはタラーゴがフェノイから購入した。
 
 更に一般的なまがいものは、買い手を欺こうとする意図をもって無名の製作家により製作された。このようなギターはスペインのアルメリアに限定されてはおらず、他の国にも見られる。2つのタイプ、つまりスペインで製作された物と、ヨーロッパのとりわけドイツで製作された物は身元を確認できる。アルメリア周辺で製作されたものは通常、非常に質の悪い材料、粗末な松材を使った表面板、ウォールナットやシープレスを使用した横・裏板をもつ。一方ドイツで製作されたものは、良質のスプルースを使用した表面板とメープルの横・裏をもつ。これらの楽器はオリジナルのトーレスとして市場に出回っており、ドイツでは伝染病のように拡がった。1920年代までに、リョべートとプジョールの演奏旅行の跡を追って、ギタリストと同様に、スペインの巨匠達が使用しているのと同じトーレスタイプによるギター製作の需要が拡大した。

ビュークは1928年に、次のように書いている。

「今日、トーレスギターは、すべての真剣なギター奏者に熱望されているか、少なくとも理想的なコンサートギターまたは独奏用ギターとして賞賛されている。そして、このことが本物のトーレスか、それとも優れた複製かを明らかにするのを正当化している。」

第13章  トーレスの響き

 フリアン・アルカスは、19世紀後半において疑いなくもっとも影響力のあるスペイン人ギタリストだった。彼はトーレスをギター製作家として認めた主導的な演奏家であり、彼の助言はトーレスの改良の決定要素となっていた。アルカスはまた、バルセロナをスペインにおけるギター演奏の中心地とする上で大きな役割を果たした。彼の演奏はアグアドが確立した古典的な伝統に根ざしており、それを父親から学んだ。1853年、20歳の時、マドリードのポスタス・ペニンスラーレスのサロンでリサイタルを行った。それは当時のすぐれたギタリストとしての名声を確立するのに役立った。

 ニコラス・ヒメネスがフリッツ・ビュークにあてた記述によれば、アルカスはトーレスの有名な「レオナ」を1年間借り受けていた。彼はギタリストであり作曲家だったが、彼の音楽はソルやアグアドのようなレベルに達してはいなかった。セゴヴィアからは低レベルの音楽だと非難されはしたが、彼は"la guitarra fina"(究極のギター)を広め、大衆ギターとコンサートギターの違いを明確にするという奇跡を起こすことに成功した。彼はまた、わずかだがギターに新たなレパートリーを作り出した。セゴヴィアが評したように、彼は「自由でのびのびとしているが、洗練されてはいない芸術家」だったのかもしれない。しかし、彼の影響は広い範囲に見られ、とりわけ1860年から引退した1872年までの間、新しい奏法を考案し、トーレスが押し進めたギター製作の新たな概念を広く聴衆に広めた。彼の名人芸はトーレスギターに広い表現力を見出し、それによってギター演奏に新たな響き、効果、活力を与えることができた。アルカスの演奏が低レベルだとの批評は、ギター世界への真の貢献を見逃している。当時重要だったことは、彼が選んだ音楽の質ではなく、演奏マナーであり、固有の響きであり、革新的なギターが作り出す色彩だったのだ。アルカス氏がコンサートで何をどのように弾いたかを特定する必要はない。
 
 オルフェウス(ギリシャ神話の竪琴の名手)は二分音符や全音符にこだわらなかっただろうし、聖セシリアはおそらく楽譜のト音記号について何も知らなかっただろう。ただ、アルカスが「すばらしい音楽を語った」こと、ケンブリッジの公爵夫人とメアリー王女を含む聴衆が完全に魅了されたことを述べておけば充分だろう。(ブライトン・オブザーバー紙 1862年11月21日)

 19世紀スペインにおけるギターは、他のオーケストラの楽器と競う必要はなかった。聴衆はギターが出せる以上のもの、つまり他の楽器に比べて音量が見劣りするという明らかな欠点の改善を求めなかった。アルカスが所有し、のちにタルレガ、プホール、クエルヴァス、マンホンらが使用したトーレスギターは、複雑な音楽の構造よりも、スペイン固有で官能的かつロマンティックな強い個性をもった新しい次元を与えることになった。

 トーレスギターは、重量が軽く、アルカスの名人芸的な奏法に堂々と追従した。彼はオペラの主題の編曲に、ロンデーニャ、ホタ、ムニェイラ、ボレロのような国民的旋律を結びつけ、スペイン内外の聴衆から賞賛を得た。ブライトン・ガゼット誌(1862年11月20日)の批評には次のように書かれている。「すべてのうちでおそらくもっとも楽しかった曲は演奏者自身の手になるスペイン民謡『ラ・ガジェガーダ』だった。それがどれほど魅力的で変化に富んでいたか書き記すことはできない。そこには彼の音楽家としてのすべての資質とギター演奏の技術が現れていた。彼は熱狂の中でコンサートを終えた。」

 彼のトーレスの総合的な力量は、聴衆や批評家に気づかれずにいることはなかった。ウェルタやレゴンディのような巨匠とアルカスとの比較が成り行きとなった。

 アルカスが弾くとき、トーレスのギターは物を語る楽器であり、また涙を流すギターだった。おびえた響きで鳴らすとき、話しかけるような雰囲気をもって哀願するかのようだったので、楽器が神の力によって訴えているのではないか想像する人もいた。(ブライトン・ガゼット誌 1862年10月30日)

 同じ批評家によれば、アルカスはギターの上で実現するのは不可能に思われる洗練、明晰な響き、速さ、正確さをを増していった。1862年11月21日付ブライトン・オブザーバー紙は次のように示唆している。「彼自身が悪魔となってギターの中に入ってしまい、サウンドホールから出ようともがいている。」

 時が経って、ふたたび批評家は音響と効果の広がりを認めている。アルカスは彼のギターからうまく音を引き出すことが出来るのだと。1862年、アルカスはトーレスを携えて英国へ行く途中、マドリード音楽院でコンサートを行った。それは1862年7月1日付ラ・ディスクシオン紙の音楽批評家の大変な好評を得た。批評家は、その特質と美しく感情豊かな演奏を認め、次のように述べた。「メロディの単純さと純粋さ・・・驚くべき効果を作り出す音の豊かさと流麗さ。」そのギターは低音部がよく響くだけでなく、深い旋律とのコントラストを作り出していた。

 プホールによれば、1862年、カステジョンで行われたアルカスのコンサートの折に、タルレガは初めてアルカスの芸術性に出会った。アルカスはラ・レオナを使って演奏し、タルレガは「トーレスによってアルカスのために特別に製作されたあたたかい響き」に感銘を受けた。トーレスは、すべてのギターを越えたものという意味で、ラ・レオナという呼び名をその楽器に与えた。タルレガのけして忘れ得ぬ印象は、まず1869年製のトーレス作品(FE17)の獲得によって結実した。彼はそれを四半世紀にわたって使用した。エミリオ・プホールはタルレガの弟子であり賛美者だったが、トーレスを2本所有していて、彼が見たギターうちでタルレガの最初のトーレスを最高のものと見なしていた。プホールはパリのある新聞のレビューを引用している。「ひとつの楽器がこれまでに作り出したもっとも美しく甘い響きが、非常に難しい楽器から鳴るのを昨夜聴いた。」

 1876年、トーレスは11弦ギターを数本製作した。3本は現存しており、盲目のギタリスト、ヒメネス・マンホンによって弾かれた1本の魅力は、1889年にバルセロナで行われたリサイタルの折に、ミゲル・リョベートに転機をもたらした。それはリョベートの人生を変え、音楽家として歩むことを決心させ、熱烈なトーレスギターの信奉者へと変えた。コンサートにおいて、トーレスギターが暖かみのある自然さを経験させ、そのバランスが消すことのできない印象を残すのは確実なことだった。そしてちょうどタルレガがアルカスのトーレスギターに興奮したように、リョベートはマンホンのギターに熱狂し、リョベートによるリサイタルの聴衆は演奏者の真の音楽的才能だけでなく、楽器そのものにも魅了された。アイルランドの著作家ヴィリアーズ・ヴァーデル夫人は、パリでリョベートのコンサートを聴く機会をもったが、人を感化させる出来事だったと次のように述べている。

「リョベートは注目に値するギタリストだった。彼は、タルレガ−この50年でスペインが知る最高のギターの師−のお気に入りの弟子であり、輝かしい師と同様にギターを語らせることができた。私がこの音楽家にはじめて会う機会をもったのはパリだった。私は、ショパンの最も優雅なノクターンの最初の音が静かに鳴るのを聴いたときの、強い驚きの感情を告白しなくてはならない。私はギターが深刻な音楽に向いていると思ったことはなかった。しかし、ミゲル・リョベートの手の中で、それはバッハ、メンデルスゾーン、ショパン、ベートーヴェンを奏でた。この響きは信じがたいものだった。そして、ギターは素晴らしく有能な楽器となることがわかった−優れた技量をもつ手によって。コンサートの終演に向かって、我々はスペイン風の曲を求め、彼はタルレガ自身によって作曲されたホタを演奏した−忘れられないスタイルで。」

 幸いなことに、リョベートがトーレスを使って残した初期の録音は、彼の音楽的力量と同時に、1859年製トーレスの音を示している。トーレスが弾かれるのを聴いた狂信者達に生じさせた魅力については、多くの物語がなお語られている。ラモン・カペル「エル・ヴィエホ」は、彼が数年前にラウーハルの村で目撃したことについて、私に詳しく話してくれた。ひとりのアメリカ成金(アメリカからもどった裕福な移民)がトーレスのギターが弾かれるのを聞いたとき、その素晴らしいギターを所有したいという誘惑に抵抗できなかった。彼はその後、所有者の激しい抵抗にもかかわらず、きわめて高額でそれを買い取った。所有者は手放すのに気が進まなかったが、大きく吊り上げられた価格に屈服した。

 「ラ・レオナ」についても同様に激しい感情を呼び起こす物語があり、所有者が手放すときの昂ぶりが見られる。リョベートの娘は、大ギタリストと同様にトーレスを手に入れようとする何人かの狂信者の執念について述べいる。フランスへの演奏旅行の際、リョベートはフランス系アルゼンチン人の医師ラマウヘと知り合った。彼はとてもギターを好み、リョベートの親友となって、一緒に行動した。何度かはパルマ・デ・マジョルカのリョベートの自宅へ招かれて滞在した。トーレスを使って作り出されるリョベートの音に惚れ込んで、ラマウヘは彼自身トーレスを所有したいと熱望した。トーレスだけがリョベートの演奏をまねたいという彼の望みをかなえることができた。リョベートは何本かトーレスを持っていて、この医師にしつこく何度も譲ってくれるように懇願された。何度もリョベートは断ったが、ラマウヘの根気に負け、ついに一本の売却を承諾した。得られたことに喜んだ医師は、ずっとリョベートの演奏で耳に残ってきた甘い音を出そうと必死になった。しかしそれは無駄だった。そうしようとする意志はあったが、彼が求めた響きをギターから引き出すテクニックと芸術性が欠けていた。ある日、医師の乱暴な扱いに疲労して、ブリッジが突然はずれて飛び、不幸な医師の手首を傷つけた。医師はこのことをしばしば神の報いだと語った。自分は罰せられたのだ:第一に、しつこくリョベートに求めることで迷惑をかけたことを、第二に、トーレスに対して罰当たりな扱いをしたことを。

 同じような熱狂がホセ・ロホ・イ・シドにもあった。彼はトレドに生まれ、3本のトーレスの所有者だった。そのうちの1本は11弦のSE71である。このギターは無限の喜びを彼に与えた。彼はトーレスを弾くことに取りつかれていたので、譜面台と食卓を兼ねた小さなテーブルを持っていた。弾きながら口をいっぱいに出来るようにである。ネルハにある彼の所有する美しい土地は、オレンジの木と鉄の柵に囲まれていた。その地方のジプシー達は、彼の愛するトーレスの音を聴きに集まってきた。最初の音を聞くときには、ジプシーは土地の入口にある門のまわりに期待をもって集まっていた。彼らは鉄柵に静かに押し戻されながら、ギターの美しい響きに恍惚となっていった。ホセ・ロホ・イ・シドの義理の息子によれば、メロディーに感動して高まる感情のはけ口を求め、思わず門の鉄棒に噛みついた者もいたという。

 トーレスの音には何か特別なものがあって、専門の音楽家だけでなく、労働者の心も同様にとらえた。トーレスが隣人や友人、家族のために製作した安価なギターにさえ、透明で強い個性と訴える響きがあり、伝説となっていった。ラ・カニャーダの静かな夕暮れ、ニカワが乾くのを待ちながら、あるいは長時間の作業に疲れて、トーレスは自分の作品で流行りの曲を鳴らしてくつろいだことだろう。それは立ち聞きする隣人達を喜ばせたに違いない。こうした習慣は隣人やトーレスの家の裏の畑で働く農夫たちによく知られていて、トウモロコシの収穫の時期にも仕事の手を止めることがよくあった。それは、収穫の際に乾いた葉をむくうるさい音によってギターの音が埋もれてしまわないようにするためだった。それほど多くの人々を魅了したのは、まさにトーレスの響きそのものだった。

 ファン・リエラは、エミリオ・プホールの伝記の中でこう書いている。マチルデ・クエルバスが彼女のトーレス(FE 11)を弾いたとき、聴衆に巻き起こした熱狂は非常に大きく、彼らは木を貼り合わせて作った物がこれほど素晴らしい響きを作り出すということが信じられなかった。あるとき、疑い深い人々が奏者の手から奪い取り、特別な響きを作り出す装置が仕込まれていないか確かめた。

 ヴィクトリア・キングズレイはトーレスギターの「歌うような響き」について言及している。それはプホールと彼の先妻であるマチルデ・クエルバスがトーレスを弾いたときのことである。

「彼(プホール)は、最初のレッスンの際、すべての生徒に、許可なく他人のギターに触れてはならないと教えた。この決まりは彼とマチルデの間でさえ守られた。ところで彼らは、より大きくて重いギターが流行ることに興味はなく、それぞれ1本ずつトーレスを所有していた。それは実験的に確認されたように、ある部屋から他の部屋へと素晴らしく透過する、歌うトーンをつくり出すと私は断言できる。」

 今日でもトーレスの名前はニハルに存在しており、等しく大きな尊敬の念をもたれている。そしてギターは、良いものもそうでないものも、ラベルの有る無しにかかわらず、トーレスの作品と言われる。ごく最近まで、そうしたギターのうちで、アントニオ・セグーラが弾いていた楽器について耳にすることがあった。彼はニハルの生まれで、若いときにトーレスギターを手に入れたのだった。このいかつい労働者は村の接骨医でもあったが、愛するシープレス製のギターを弾いて毎日を終える儀式を欠かさなかった。彼の家族によると、ベッドの上の伝統的なキリスト受難像のとなりにギターを掛けていたという。彼は、農家の隅の小さな部屋にひとりですわり、お気に入りのメロディを自分のために弾くのを習慣としていた。もし演奏の途中で中断されたら、彼は急に微笑み、得意顔で「私のギターの響きは良かっただろう!?」と叫んだだろう。

 セゴヴィアが奏者の名誉のために破棄されるべきだとコメントしたにもかかわらず現存しているリョベートの録音がある。これらの録音は、リョベートの才能や解釈の証を示すだけでなく、その時代の代表的なギタリストによって弾かれたトーレスの音を後代に伝えている。それは歴史的な資料であり、セゴヴィアが求めた音の水準を満たしていないとはいえ、高い音楽的な価値と、聴く者を魅了する新鮮さをもっている。そのうちのいくつか、とくにバッハのパルティータ第1番のサラバンド(El Maestro Records)に耳障りな高音が聴かれるのは事実だが、他の録音は、エヴォカシオンやカタロニア民謡のように優れた音楽的価値もっている。

つづく